36.西の闘技場2

 イコはヨルダとともに石畳の広間まで戻ると、迷わずもうひとつの部屋――水の坂がある部屋へ向かった。もっとも、坂を流れる水はすでに止めた後なので、今ではただの坂の部屋になっているはずだった。
 坂の部屋へ続く出入り口の向こうから水の流れ落ちる音は聞こえない。部屋へ入ってもそれはは変わらず、しかしその部屋を満たすのは静寂ではなかった。部屋の更に奥、大きく開いた壁の向こうから差し込む陽光とともに、風の音と鳥の囀る声が部屋の中を満たしている。
 中に入り、真っ先に視界に入るのは――視界いっぱいに広がるのは、壁と見間違うばかりの急な上り坂だ。出入り口付近からせり上がった石床は、まるで壁のように上へと延びている。坂道も周囲の壁も今ではすっかり乾いており、つい先刻まで坂道全体を揺らめかせる水のカーテンが張られていたとは思えない。
 すぐ足元の排水口とひんやりと湿り気を帯びた部屋の空気だけが、この部屋を流れていた水の痕跡を感じさせた。
 坂道を駆け上ればその先に空間を遮る壁なく、そのままいったん部屋の外へ出る。外壁から張り出した廊下を左に進むと間もなくに行き止まりになるが、行き止まりすぐ横手の壁にはイコがバリケードを排除したばかりの出入り口が開いている。
 すぐに中に入ろうとしたイコだったが、ふと足元に視線を向けて歩みを止めた。ひとりの時は気にしていなかったが、バリケードの破片が落ちていないか気になったからだ。幸い、細かい欠片も爆風でほとんど吹き抜けの下へ落ちてしまったらしく、出入り口付近は綺麗なものだった。
 イコは隣のヨルダを見上げ、視線を下へと滑らせる。
 視線が留まった先には、初めて会った時から変わらず白く綺麗なままではあったが、裸足のままのヨルダの素足があった。霧のお城の中を進んできて靴やサンダルといった履物を見つけられたわけでもなく、ヨルダはずっと裸足のままだ。
 ヨルダを出入り口付近で待たせると、イコは念を入れて足で石床の上を払った。ぱらぱらと舞い落ちる砂利ほどもない破片を見遣ってから満足気に「うん」とひとつ頷き、改めてヨルダの手を引いた。
 吹き抜けの中央を通る架け橋を渡り、石畳の広間を見渡せる露台へ出る。
 露台を囲む手すりが途切れた先から、ヨルダがいることで現れる魔法の足場をひとつずつ渡って、ついには正面に見える角の生えた子どもの石像前に立った。
 その瞬間、ヨルダから放たれる青白い閃光が道を塞ぐ石像を動かした。そうして開かれた道から石像の奥の狭い露台に設置されたレバーを引いて最後の――未だ閉ざされたままの――巨大な真円の扉の下にある燭台の蓋を開いた。
 レバーを動かした瞬間に響き渡る、ガコンッ、という音の反響が消えるのを待つと、ふたりは来た道を戻って石畳の広間へ戻った。
 閉ざされたままの真円の扉の、向かって左端辺りに立てかけられていた数本の木の棒や剣の中から、イコは適当に木の棒の一本を選び剣から持ち替えると、すでに火の灯った燭台へ向かう。そこから火をもらい、しん、と暗いままの最後の燭台へと揺らめく焔を運んだ。
 ひとつ、灯りが増える。
 ――これで。
 一旦、火の消えた木の棒に改めて火を灯すし、最後の燭台へ橙を纏った木の棒の先を近付ける。
 ――きっと。
 イコがじっと見守る先で、ポウ、と小さな光が生まれた――その瞬間響き渡る音と振動。
 ――ゴゥ……ッ!
 巨大な扉が、いくつもの仕掛けを作動させながらゆっくりと開いていく。
 風が吹き抜け、差し込んだ光が薄暗い室内を照らしていく。
 そして――
 音もなく、振動もなく。
 けれど、確かに世界を震わせて。
 振り返ったイコの頭上を、光の帯が音もなく走り抜けていく。
 ――これで、終わり。
 ――きっと、終わり。
 イコは今や輝きを放っているだろう正門の扉を思い浮かべた。脳裏に鮮やかに描かれる輝く門は、けっして夢想などではないはずだ。
 イコが、ふ、と意識を戻した時、いつの間にか、ヨルダの姿は開いた扉の縁の上にあった。すべてを白く染めるような光の中、その光よりなお白い姿を浮かび上がらせて佇むヨルダは、ただ静かにイコを見つめていた。
「ヨルダ?」
 今にも光に呑まれて消えてしまいそうなその姿に不安になったイコは、手を伸ばし少女を呼んだ。しかし白い少女はなぜか黙って佇んだままだ。
「ヨルダ」
 イコはもう一度呼びかけながら、少女の元へと駆け寄る。
 目の前に差し出された手にようやくヨルダのたおやかな白い手が重ねられた。それでも、手を繋ぎ、こんなに近くにいるというのに、イコには急にヨルダが遠くなってしまったような気がしてならなかった。
 そんな迷いを払うようにイコは首を振った。
「……いこう」
 この先へ。広がる世界へ。
 ――霧のお城の外へ。
 精一杯の想いを紡いだイコの言葉に、ふわり、と花が綻ぶようにヨルダが微笑んだ。
 それは確かに微笑みで――だから、安堵したイコは気付かなかった。
 それが、とても寂しいものだった、ということに。




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