35.西の反射鏡

 鮮やかな緑色に染まった大地に降り立つと、まるで絨毯の上に立ったような柔らかな感触が足元から伝わってくる。
 思い切り息を吸い込めば、青々とした草の香りに混じって微かな潮の香りが鼻孔をくすぐった。
 周囲を青に囲まれた崖の上は、まるで空に浮かぶ小島にいるようだ。
 緑に覆われた足元は中央だけがむき出しの地面を露にし、浅く広い穴が掘られている。むき出しの地面には鉄で作られた大きな八角形の台座があり、その上には鉄を組み合わせて作られた、巨大な花を思わせる反射鏡が聳える。
 ここもまた、東で目にし、足を踏み入れた場所ととてもよく似ていた。むしろ同じと言った方が適切かもしれない。しかしその景色を見つめていたイコの表情は、徐々に訝しげなものに変わっていった。
 ――……なんか、変な気がする。
 そう思うのだが、何が変なのかまではわからず、だからと言って気のせいで済ませようにも目の前に広がる景色にどうしても違和感を覚えてしまう。それなのに違和感の理由がわからない。
 イコは首を傾げ、うー、と唸りながらひらけた崖上――とりわけ、中央の反射鏡に何度も目を向けた。記憶にある、東の建物の奥で見かけた反射鏡を思い起こしながら、目の前の光景と照らし合わせるようにひとつひとつ確認していく。
 掘り下げられ、むき出しになった地面の上の多角形の鉄の台座。
 そしてその上に設置された反射鏡。横からだとわかり辛いかもしれないが、光を集める反射鏡の部分は正面に向かい合えば鉄で作られた花にも見える、そんな巨大な反射鏡の外見も変わらない――
 ――横?
 目に映るそのままを言葉の羅列に変えて反芻する中、イコはひとつの単語に引っかかりを覚え――ようやく違和感の正体に気が付いた。
 反射鏡は、建物――壁に穿たれた巨大な真円の穴から出てきたばかりのイコとヨルダ、ふたりと真正面から向かい合っていなければいけないはずだ。なぜなら反射鏡によって集められた光は、壁を穿つ巨大な円を描く三つの穴を通って崖上の回廊の先にある球に送られ、そしてそこから――どのような作用でなっているのか、イコには理屈はわからないが――正門へと光が注がれているからだ。これこそが正門を開くための壮大な仕掛けのはずだ。それなのに肝心の反射鏡が横を向いていては集まった光はあらぬ方向へしか放たれない。それでは光を集める意味がないだろう。
 事実、東の建物では反射鏡は穴を通って出てきたばかりのイコたちと、正面から向かい合っていた。
 そして今、ふたりの目の前にある反射鏡が、花弁のような部分を横に向けていることも変えようのない事実だった。
「ええ!? なんで!?」
 イコは思わず叫ぶと反射鏡に駆け寄った。
 近付いていくら確かめても、反射鏡が横を向いているという事実は変わらない。
 ――なんとかして動かせないかな?
 イコは反射鏡を見上げながら周辺をぐるぐると回る。それとももしかしたら建物の中に何か動かす仕掛けがあるのかもしれない、とイコが建物内に戻ろうとした時、反射鏡の下から延びる取っ手に気が付いた。鉄の台に上り、取っ手を間近でじっくりと見つめていたイコは、もしかして、と思い付き、取っ手を掴んで思い切り押してみた。
 ――ゴ……
 ずしん、と重い手ごたえと共に、ほんの僅かではあったが確かに反射鏡が動いた。
 ――動かせる!
 そのことに力付けられ、イコは取っ手を掴んだ手に更に力を籠めた。腰を深く落とし、鉄の地面をえぐるように足を蹴りだす。食いしばった歯の隙間から唸り声が零れた。そしてそれに呼応するように反射鏡も重々しい音を立てて向きを変えていく。
 ――ゴ……ゴゴ……!
 反射鏡の重さか、台の動く部分が錆び付いてでもいるのか、いくら動かしても重い手ごたえはまったく変わらない。そのため反射鏡を動かすことに必死になり、イコの視線は地面に落とされたままだからどれだけ回せたか見当も付かない。
 ――だからって回しすぎたら間抜けな気がする。
 そう思いついたのは、そろそろ建物がイコの背後に来るだろうという位置まで、反射鏡を回した時だった。
 イコが確認のため、一度足を止め反射鏡を見上げよう、そう思い力を抜きかけた瞬間、
 ――ガチン!
 響き渡った音は、何かが噛み合った、あるいは填まったような音だった。そして同時に取っ手を掴んだ手ごたえが急に重さを増し――否、びくともしなくなる。
「……えっ」
 突然のことにぎょっとしたイコは、取っ手を握り直し改めて押したり引いたりしてみるが、先ほど動いていたことが嘘のように、鉄の台にしっかり固定された反射鏡はぴくりとも動かなくなる。
 ふと頭上を見上げると、花のような反射鏡はいつの間にか扉と真正面から向かい合う位置にまで来ていた。
 それを見てイコの肩から力が抜けた。ほう、と息を吐き出すと今更ながらにどっと汗が噴出してくる。
 ――変な向きで止まらなくてよかった。
 どうやら反射鏡が扉と向き合う位置に来ると固定される仕組みだったらしい。
 反射鏡の位置がおかしいことに気付いてよかった、と、イコは胸を撫で下ろした。これで最後に残ったのは一番目の扉を開くことだけだ。まだ見ていない、石畳の広間から行けるもうひとつの入り口から通じている部屋――予想通りなら水の流れる坂の部屋――から上へ上っていけばいいだけのはずだった。
「よーし! ヨルダ、なかにもどろう!」
 イコは鉄の台から、ぴょん、と軽く飛び降りるとヨルダの手を取ってそのまま建物の中へ戻ろうとし――そこで改めて目にした外壁の、壁に開いた真円の穴の右側に梯子が掛けられていることに気が付いた。
 確か東の建物では、同じように――ただしあちらは左側に掛かっていたが――壁に掛けられていた梯子を登ると、二つ目、建物の真ん中にある扉を開くためのレバーへ通じていた。しかしこちら西の建物ではすでに二つの扉を開放しているし、外の反射鏡は手動で動かせた。そうなると、ここでは東と対象の造りになっているから梯子があるだけで、梯子の先に重要な仕掛けがあるようには思えない。しかし、それとも他にも変わった仕掛けがあるのだろうかと思うと好奇心が首をもたげてくる。
 イコは、何があるかわからない城の中だから、そんな言い訳をしつつ梯子に手をかけた。ヨルダはここで待たせた方がいいかと逡巡したが、結局一緒に登ることにする。
 梯子を登り建物の中へ入ると、そこは緩やかな段差の階段の現れた室内の天井と床の中間辺りに壁に沿って作られた中二階のような通路になっていた。通路といっても、部屋の半ばに至る前に前方は壁で塞がれてしまう。梯子を登って左手側、階段状の通路に面している側は何の手すりもないため開けているが、実際下の段々にせり上がっている通路まで下りるにはそれなりの高さがあるから、降りようという気はあまりしない。下りられない、あるいは下りたくないという意思はまるで透明な壁だ。そのせいか左右を囲まれたような錯覚がして、まるで袋小路に出てしまったような気がした。
 行き止まりになるだけで何もない通路に多少なりとも落胆しつつ、何もないならさっさと隣の部屋に行こうと踵を返しかけたイコは、横手から、チャリ、と金具の擦れる音を聞いた。音の出所を探して視線を彷徨わせると、やがて更に上の通路からぶら下がっている鎖に気が付いた。巨大な円盤状の扉が開いたことで部屋に吹き込んだ風が、ゆらゆらと鎖を揺らしている。
 鎖を吊り下げているのは、本来隣の部屋から外の回廊を通って至ることができるはずの通路――東の建物だと途中階段を上りながら壁沿いにぐるぐると回って進めば水を止めるレバーの部屋へ至り、吊り橋を下ろせば魔法の足場が出てくる露台へも通じる通路の最下層だ。もちろん、最下層といってもその遥か下にいるイコから見ればとても届きそうにない高さである。
 そこから吊るされた鎖もあまり長くはなかった。その上、鎖が吊るされている位置は上がってきた通路からかなり離れている。しかし、普通に手を伸ばすだけではもちろん届かないが、今立っている部屋の半ばの高さを通る通路からなら吊るされた鎖の端の高さは目線と同じで、通路から鎖までの距離も、イコが思い切り飛べば届くかもしれない距離だ。
 イコは上空をじっと見つめた。
 下から仰ぎ見る限り、壁沿いに上っていく通路は東の建物の時と同じようだった。まだ確認したわけではないが、もう片方の部屋が水の流れる坂の部屋だとすると、この上に水を止めるレバーがある、と思う。
 もう一度高い位置で揺れている鎖を凝視する。鎖に飛びつくこともできそうだし、反対に、鎖を揺らして勢いをつけて飛べば難なく今立っている通路に戻れるだろう。
 隣の部屋が東の建物と同じ造りだとしたら、壁から張り出した縁に掴まりわずかな取っ掛かりを頼りに登って進むよりは、今この場で行けるなら先に水を止めてしまった方がいいだろう。
「……うん、そうしよう」
 考えた末にそう結論付けて、イコはヨルダにこの場で待つように身振り手振りで伝える。それからこれまでのように「いってきます」と声を掛けると、イコは鎖に向かって跳んだ。あっという間に目前に迫った鎖をあやまたず掴むと、飛びついた衝撃による揺れが収まるのを待ってから鎖を登っていった。
 鎖から登ってすぐ目の前には、隣の部屋から通じている入り口――だったはずのもがあった。
「……あれ?」
 予想外の出入り口の様相に、イコは思わず目を瞠っていた。
 出入り口の形をした一角には板が打ち付けられ、完全に塞がれていたのだ。もちろん、出入り口を塞ぐバリケードは剣で叩いたくらいでどうにかできるような作りではない。
「……えーと、うん。とにかく上にいこう」
 呆然としてしまったのは一瞬のことで、すぐに我に返ったイコは当初の目的を果たすために上を目指して上へ続く通路を進み始めた。出入り口近くは吊り橋が上げられているため、吊り橋幅分道が空いているが、イコはそこを軽く跳び越えると上を目指しながら同時に周囲を注意深く窺った。何か、あの入り口を塞ぐバリケードを外せるようなものはないか、視線がせわしなく動く。
 壁沿いの通路を走り、途中階段を上り、吊り橋を吊るすロープの下を通る時は行きがけの駄賃とばかりにロープを切り落とす。吊り橋が繋がったことを確認しながら通路を進み、すぐに通路の終着点に辿り着くと、イコは入り口手前の仕掛け床を踏んで扉を開き、入り口を通って隣の部屋へ入っていった。
 部屋に一歩足を踏み入れた途端に聞こえてきたのは、想像通りの水の流れる音だった。ちらりと手摺を横目で見遣ると、手摺の向こうには東の建物と同じような水のヴェールに覆われた坂道が見えた。
 イコは入ってきたばかりの、屋内に作られた露台のような場所にはレバーしかないことを確認すると、すぐさまレバーを動かして水を止めて踵を返して螺旋の通路に戻った。
 通路を戻る時も改めて周囲の様子を窺うが、上下を行き来して結局見つかったのは途中、階段を上ってすぐの通路端に無造作に置かれた二本の木の棒くらいだった。剣よりも心もとないその棒で、まさか出入り口を塞ぐ板を壊せるはずがない。
 こうなると、まだ行っていない――確認していない場所は、上る途中で繋げた橋の向こう、不思議な足場の現れる露台だ。
 しかし足場はヨルダがいなければ現れない。それでも念のため、とイコは橋を渡って石畳の広場の上空に張り出した露台へ出た。露台の前面はほとんど手摺に囲われながら、恐らく不思議な足場が出る一角と思われる場所で手摺が途切れている。イコはひとりで手摺の途切れた一角に近付いたが、もちろん何も起こらない。
「……やっぱりだめかぁ……」
 ――入り口を塞いでいるバリケードを壊せそうなものも見つからないし。
 いくぶん肩を落として戻りかけたイコの足が止まった。
 露台の手摺近くの壁際に、陰に隠れるように並べられたいくつもの大きな黒い球体。
 それは間違いなく、これまで何度となく目にした爆弾だった。
 本来はとても物騒なものであるはずの黒い球体を前に、イコの目が喜びに輝く。
 これならば、とイコは重い爆弾を抱え上げるとバリケードに塞がれた出入り口まで運び、バリケードの目の前に爆弾を置いた。一度、下で待つヨルダに目を遣り、ここで爆発してもヨルダの立つ場所まで影響が及ぶことはないだろうと確認する。
 次に爆弾に火を点けなければならないが、これは簡単だった。イコは通路の途中の踊り場まで戻ると、そこに放置されていた木の棒に持ち替えた。それから近場の灯りから火をもらい、急いで通路や階段を駆けてバリケード前に駆け込むと爆弾に火を点ける。
 導火線が火花を散らすや否や、爆破の衝撃を避けるため、また同時に木の棒に持ち替えるため踊り場に置いたままの剣を取りに、イコは再び通路を駆け上った。
 やがて、ドォンッ、と大音が響き渡り、びりびりと叩きつけるような振動が襲ってきた。伝わってくる振動に転びそうになるのを堪えて振り向くと、バリケードの周辺は爆発の衝撃でもうもうと立ち上がった煙に覆われていた。もっともその煙もすぐに晴れ、一条の光が外から差し込んでくる。
 出入り口を塞いでいたバリケードが吹き飛ばされ、出入りを妨げるものがなくなったのだ。
 上手くいったことに、イコはほっと息を吐いた。軽くなった足取りで飛ぶように駆けると、剣を拾い上げ、バリケードのなくなった出入り口前――そこに吊るされた鎖の傍まで戻る。
 イコは鎖を伝って鎖の端ぎりぎりまで下り、そこから一度身体の向きを変えると、鎖に絡めていた足を外して身体を前後に大きく振って鎖を揺らし始めた。揺れる鎖の振幅が大きくなった頃、その反動を利用して思い切り飛んだ。
 待っていてくれる少女の元へ。




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