34.西の偶像階段

 ――あれ?
 部屋に足を踏み入れてすぐ、イコは訝しげに首を傾げた。
 てっきり水の流れる坂と同じく、部屋の幅いっぱいに広がる上り坂があるものと思っていたのだが、予想に反してそこには眼前を埋め尽くす坂も、絶え間なく流れる水のカーテンも見当たらなかった。
 出入り口は新たに足を踏み入れた部屋の隅にあり、左側はすぐかべになっている。目の前にも、恐らく十歩も進めない程度の距離の先に壁がある。ただし右側には広い空間が続いている。もっとも同じ高さの床は右――つまり、背後の出入り口側の壁に沿って延びる通路のような狭い足場くらいで、この部屋の大部分は手すりに遮られた向こうの、更にずっと低い位置に床がある。狭い足場は巨大な真円を描く扉の真下まで続いており、イコは円盤状の扉の前に立つとさらに部屋の最奥に目を向けた。同じ目線の高さのずっと先には、三つめ――恐らく建物の外に通じているはず――の円形の扉がある。巨大な扉の填められた部屋の奥の壁は、扉より下の壁が前方に張り出し、張り出した上に燭台とレバーが設けられている。しかし、出入り口側の足場には下へ降りる梯子があるが、奥のレバーと燭台のある足場には上るための梯子も何も見当たらない。
 水の流れる坂だと思っていたイコの予想とは違っていたが、しかしこの光景も見覚えのあるものだった。
 そう、長い上り階段が現れた部屋である。
 イコは手すりから身体を乗り出し、何かを探すように下方に目を向けた。もっとも探すまでもなく、視線は目的のものを捉える。それは背の低い円柱――巨大な円盤状の扉まで至る階段を現すための仕掛けだった。
 部屋の造り、仕掛けの数々、それらは確かに記憶の中にある部屋の様子とよく似ていた。しかし同時に、記憶――東の建物と違う所もたくさんある。
 その中でも気になったのは部屋の造りだ。
 ――そういえば……。
 イコは西の建物に入ったばかりの時を思い出した。あまりにも記憶の中の光景と似ていたため、無意識に右手で探していた梯子は、実際は左側の壁にあった。そして、東の建物なら水の流れる坂の部屋へ通じていた出入り口が、この西の建物では長く延びる階段が現れる仕掛けの部屋になっている。
 つまり、東と西の建物は崖上の長い回廊から眺めてわかるように、正門を挟んで向かい合う位置に立てられていることから、合わせ鏡のように左右対称の造りになっているのではないだろうか。
 そこまで思いついて、それならば、とイコは隣の部屋のことを考えた。
 東の建物と中の構造が対称ということなら、部屋の配置が違うだけで東にあった部屋は西のこの建物内部にもあるはずだ。そうすると右側の入り口が水の流れる坂の――あるいはそれによく似た造りの――部屋に通じているのだろうか。
 イコは一度確認してこようかとも思ったが、結局のところ三つの扉すべてを開くためにはもう片方の部屋も通らなければならないのだろうし今すぐ確認に行くことはないだろう、そう考えて先にこの部屋の中にある二つの扉を開くことに決める。
 ここでしなければいけない大体の要領はわかっていたから、部屋の様子を窺う、というよりも、燭台を覆う丸い鉄の蓋を開けるレバーや、燭台に火を灯す為の火種となるものの位置を探していた。
 この部屋の出入り口近くには、石畳の広間で見かけなかった代わりにということなのか、不思議なソファがあった。ソファが置かれているのは出入り口のすぐ目の前、ちょうど左側と前方の壁の角で、ソファの隣――出入り口から見ればソファの手前――には剣と木の棒が無造作に置かれている。
 前方の壁には上へ登る梯子が掛けられており、その上の方から橙の光が零れて見える。どうやら梯子を上った先にも部屋があり、そこで火が灯されているようだ。少なくともこの梯子の上に火種とできるものがあることだけは確かだろう。
 イコは念のため、火の位置を確認するために梯子を登り始めた。もしも火が灯されている場所が、木の棒を伸ばしても届かないような場所にあったら厄介なことになる。
 梯子を登った先は、狭い足場になっていた。小部屋と言うより部屋の中に設けられた物見台のようだ。
 そこには火の灯った松明を支える背の高い燭台があり、更に床にはレバーが設置されている。
「……このレバーって、もしかして」
 イコが覚えている丸い鉄蓋を開く仕掛けのレバーの場所とは違うが、もともと何から何まで同じというわけではない。このくらいの位置の差異はあるだろう。
 イコは迷うことなくレバーを動かした。
 ――ガシャン!
 その瞬間部屋の中に鳴り響いた金属音は、記憶通りのものだった。
 思わず梯子の取っ手に手を掛け、下――出入り口側と部屋の奥、二つの扉の下にある丸い鉄蓋を確認しようとしたが、角度が悪い上に部屋全体が薄暗いため、どちらの扉の様子も窺い知ることはできなかった。
 イコは急いで梯子を下りると、まずは一番近い――石畳の広間とこの部屋を分断している――二つめの扉に目を向けた。
「あ!」
 そこで感嘆の声が上がる。鉄球のような蓋がなくなり、代わりにその下に隠されていた燭台が露わになっていたのだ。
 そうなれば話は早い。
 イコは手にした剣とソファ横に放置された木の棒を持ち替えると、猛然と梯子を登りだした。炎の揺れる松明から木の棒に火を移し、今度は大急ぎで梯子を下りる。梯子が長い分下りるのに少々時間がかかったが、東の建物で何度も挑戦してようやく火を灯せた時に比べれば遥かに余裕を持って火を運ぶことができた。
 木の棒の先に灯った火の勢いに衰えが見え始めた頃には、姿を現した燭台はすぐ目の前だ。そして片方だけにでも火を灯すのが間に合えば、今度はその燭台から火をもらうこともできる。
 そうしてすぐに二つの燭台に火が灯された。
 ――ゴウンッ!
 重々しい音が響いて部屋が揺れる。同時に巨大な円盤の中央に、円盤を左右に分断する一筋の線が走る。部屋を揺らすような轟音とともに左右に分かれた半円の扉は、音が止む頃には壁の内部に収容され、後に残るのは壁に穿たれた巨大な真円を描く穴だけになった。穴の向こうに目を向ければ隣の部屋――石畳の広間を望むことができる。
 イコは無事に扉のひとつを開いたことに、ほっと一息ついた。
 それにしても、とイコはレバーと松明のあった上の小部屋に視線を向けた。
 思っていたよりも東の建物との差異が目立つ。こうなるとレバーの位置以外にも、イコが知る仕掛けとまったく違うものがあるかもしれない。多少の構造の違い程度は気にせず、東の建物の時と同じように進めば良いと考えていたが、少し考え直したほうが良さそうだ。
 イコは再び剣に持ち替えながら、気を引き締めるように冷たい柄を固く握り締めた。



 次にイコはヨルダとともにもうひとつの梯子を下りて、背の低い円柱に近付いた。
 円柱が放つ発光が強さを増し、その様子が東の建物で見たものと同じであることを確認すると、ふたりで円柱の上に登った。途端に柱が沈み始め、前方――奥の扉までの床が段々状にせり上がり、緩やかな段差の階段が現れる。
 ここまでは記憶にある光景とほぼ同じだ。
 東の建物ではここで、階段状の坂とともに影たちも現れた。イコは剣を構えて様子を窺うが、しばらく待ってみても何か起こる気配はない。
 ふっと息を吐いてから構えていた腕を下ろし、ヨルダと一緒に階段を上る。この辺りの構造は東と同じようで、巨大な真円の扉の前にレバーと松明がある。レバーはこの三つめの扉の下にある燭台の鉄蓋を開くためのものだろう――その考えの通り、レバーを動かすとガシャン、という金属音とともに丸い鉄蓋が開いた。そしてもちろん、鉄蓋が開いた先には燭台がある。
「あとは火を……」
 ――点けよう、と手元に気付いて、イコは思わず憮然とした表情を浮かべてしまった。つい先ほど、木の棒から持ち替えたばかりだから当然手の中にあるのは篝火を照り返す鋼の輝き。
「……ヨルダ、ちょっともどろう」
 一瞬躊躇ったが、結局ヨルダをつれて梯子の下まで階段を下りた。ヨルダを一度そこで待たせ、イコはカンカンと足音を響かせて勢いよく梯子を登ると、急いで木の棒に持ち替えて再び梯子を下りる。
 再び三つめの扉の前まで戻ると、今度こそ、と木の棒に火を移して二つの燭台に火を灯した。
 これまでの巨大な真円の扉と同じように、この扉も轟音を響かせて左右に開かれる。扉の開いた後の巨大な穴を通って眩い陽光が部屋に差し込み、薄暗かった室内を明るく照らし出す。
 吹き込むと風と草の匂いを感じ、イコは陽の眩しさに目を細めながら穴の向こうに広がる景色を見ようと視線を向けて――その目が驚愕に見開かれた。
「――ッ」
 ヨルダの口から小さな悲鳴が迸る。
 陽光に白く霞む視線の先で真っ先に飛び込んできたものは、扉が開いた後の縁に手を掛け今にも部屋へ入ってこようとする、人の形をした漆黒の影だった。



「――ヨルダ!」
 イコはヨルダの手を取るや否や、なだらかな階段を下りるため身を翻し――思わずその足が止まり、たたらを踏む。
 振り返った先に、バサリ、と漆黒の翼をはためかせる影の姿があったためだ。
 ――挟まれた!?
 しかし立ち止まっていても、背後から壁に大きく開いた穴を通って、外から影たちが迫ってくる。
 この場で迎えうつか――その考えが脳裏をよぎり、握り直した手の感触の頼りなさに、イコは今更ながらに思い出す。
 ――剣!
 火をつけるため木の棒に持ち替えたまま、剣は梯子を登った先にある。
 数多く迫ってくる影たちに対し、木の棒ではあまりにも頼りなかった。
「ヨルダ、いくよ!」
 イコは決して離れないようヨルダの手を強く握り直すと、階段を駆け下りていった。しかし半ばも進まないうちに前方から迫ってきた影たちに足止めされ、背後から追ってきた影たちにも追いつかれてしまった。あっという間に周りを取り囲まれてしまう。
 何とか影たちを振り払おうと木の棒を振り回すが、影たちに堪えた様子は見られない。――そう、剣を手にしてから、影たちとはずっとあの光り輝く鋼を振っていたから気付かなかったが、影たちも遭遇したばかりの頃よりも強くなっていたのだ。
 幾度となく払っても、群がり、間断なく襲ってくる影たちに、イコの心に焦りが募る。
 ――なんとか剣をとってこないと……!
 イコは焦りから、周囲を黒く埋め尽くす包囲を抜けるため無理に進もうとしたが、影たちはそこに生まれた隙を見逃さなかった。隙を付かれたイコは背後から強い衝撃を受けて吹き飛ばされる。その拍子に繋いでいた手が離れ、ぬくもりが消える。
「うわっ!」
 ろくな受身も取れず、少年の未だ未発達な身体がなだらかな階段を二転三転と転がり落ちる。痛みに呻きつつそれでもイコは起き上がろうと半身を起こしながら、ヨルダを捜して無意識に上げられた視線が捕らえたのは、眼前に迫った漆黒。
 ――ドン!
 半ば朦朧としたまま立ち上がったところを狙われ、再び漆黒の豪腕に殴り飛ばされる。今度こそ意識が薄れていき――
「――!」
 ――バサリ。
 ヨルダの悲鳴と、大きく羽ばたく音。耳朶を打つふたつの音に薄れかけた意識が一気に浮上した。気が付けば仰向けに倒れていたイコの目の前――上空を白い輝きを抱えた漆黒が横切って行く。
「ヨルダ!」
 飛び起きたイコは、イコを行かせまいと迫る影たちに頓着せず一息に階段を駆け下り、梯子に飛びついた。追いついた影たちがイコを引き摺り下ろそうと手を伸ばしてくるのを間一髪かわし、梯子を登る。
 ヨルダを抱えた影は、いまだ閉ざされたままの巨大な円形の扉の前でゆっくりと降下を始める。その先――扉の手前に延びる狭い通路の石床には、揺らめく漆黒の淵。そこに影が降り立つと、たゆたう漆黒と同化していくように影の身体が沈んでいく。もちろん、抱えたままのヨルダとともに。
 白い光が漆黒に呑み込まれていく。
「ヨルダ!」
 もう一度――否、何度でもイコは呼び続け、沈み行く少女に精一杯手を伸ばした。途中、視界にちらついた鋭い輝きに目もくれず、ただひたすら目指すのは大切なぬくもりだった。
 イコの呼びかけに応えて、白い腕が駆けてくる少年に向かって伸ばされる。
 イコが淵の傍まで辿り着いた時にはヨルダは首の下まで沈んでいたが、イコは過たずその手を握り締めると、力いっぱい腕を引いた。ヨルダを放すまいとして纏わりついてくる手ごたえに負けじと、イコは渾身の力でヨルダを影穴から引きあげる。一瞬の均衡の後、ヨルダを捕らえていた力が失せ、白い輝きがすべて露わになる。
 しかし安堵するにはまだ早い。
 再び不吉な羽ばたき音が聞こえた。振り返れば、梯子を登ろうとする漆黒の巨躯の姿もある。
「ヨルダ、走るよ!」
 次にイコが目指したのは、先ほど木の棒に持ち替えたとき置き去りにしていた剣だった。ソファの傍らまで駆けると、手にしていた木の棒を投げ捨てるように無造作に放り、横たわる剣に手を伸ばす。
 剣の柄に伸ばされるイコの手――その視界にちらつく、今にもすぐ背後に迫ってきそうな黒い影たち。
 落ち着け、と自身を叱咤する。
 伸ばされたイコの手は、確かに剣の柄を握り締めた。冷たく固い手ごたえがやけに頼もしく感じる。
 そして、同時に背後から迫る圧迫感。
 その時にはイコは背後に向けて振り返りざま、剣を鋭く横凪に払っていた。
 木の棒より遥かに鋭い、空気を切り裂く音。
 そして木の棒とは比べ物にならない手ごたえ。
 イコは光を照り返す刃を眼前に構え、影たちを鋭く見据えていた。



 すべての影も、漆黒の深淵も消え、無我夢中で剣を振っていたイコは外から吹き込む風の音に我に返った。
 ふ、と力が抜け、剣を構えていた腕が両腕にかかる重みに引かれて垂れ下がる。
 剣は変わらず重い。けれど気が付けば、初めて手にした時ほどの重さは感じていない。――その剣を手にしたのだって、そんな昔のことではないのだけれど。
 イコはもう一度剣を上に掲げた。刃が外から差し込む陽光にきらきらと煌いている。
 その手の重みに負けないくらいには強くなれたのだろうか。
 ――よく、わからない。
 掲げた腕を下に降ろす。
 けれど少なくとも、掲げた煌きをそれほど重くは感じてはいないことだけは紛れもない事実だった。
 そしてもうひとつ。
 けっして軽くなることはないだろう、大切な重さ。
 差し出した手に重なり合うぬくもり。
 それを守ることができたのだということも、紛れもない事実だった。




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