33.西の闘技場

 建物の中は驚くほど東の建物と良く似ていた。
 東の建物に入った時と同じように、中に足を踏み入れるや否や音を立てて背後の入り口が閉ざされ、ふたりの周囲に満ちる闇がその濃さを増した。建物に入ってすぐの空間は狭く、前方は鉄柵によって塞がれている。そして鉄柵越しに見える巨大な真円の模様が描かれた壁――否、イコはそれが巨大な扉であることを知っている。
 それらの光景に、イコは思わず目を瞬かせた。
 突然訪れた暗闇に目を慣れさせるためというよりも、あまりにも記憶どおり名光景を前に、一瞬、ここは東の建物なのだろうかと思ってしまったからだ。
 もちろん、細かく見れば違っている点はいくつもある。例えば、鉄柵の向こうに見える巨大な円形の扉に剣は挟まっていないし、東の建物では入ってきた入り口近くに木の棒が何本も無造作に置かれていたが、この西の建物ではそれがない。梯子も、イコは無意識の内に鉄柵から向かって右側の壁を手探っていたが、良く見れば梯子が掛けられているのは左側の壁だった。
 そして外と完全に隔絶され、しん、と静まり返った室内は薄闇に満たされている。東の建物はもっと音に溢れ、暗闇の変わりに色濃い影が落とされていた。それは東の建物の石畳の広間では天井がなくなっていたためだった。しかしこの西の建物は東ほど傷んでいなかったようで、頭上を仰ぎ見た先にあるのは青空ではなく、闇に紛れてしまいそうな暗い天井だった。
 似ているけれどほんの少しずつ何かが違っている内部の様子に、イコはようやくここは東の建物とは違う場所なのだと納得し、梯子を登るとその思いはますます強まった。
 大まかな内部の作りに変わりはないように見えた。石畳の床、前後の壁に見える巨大な円盤――真円を描く扉、そのすぐ下に設けられた鉄球――燭台を覆う丸い鉄の蓋、部屋の両端にある二つの出入り口、左右の壁沿いに延びる階段。
 それは驚くほど記憶通りの光景だった。
 けれどやはりどこかが違っていた。
 例えば、東側の建物だったら、この石畳の広間には近付けば光りだす不思議なソファが置かれていた。しかしここではソファは見当たらず、代わりに東の建物でソファがあったのと同じ付近に、剣や木の棒が数本立てかけられている。
 例えば、東側の建物だったら、片方の――長い階段が現れる部屋へ続く右端の出入り口が開いていたが、ここの出入り口は左右両方とも鉄の扉に閉ざされている。
 そして何より、東側の建物だったら、前方――二つ目の巨大な真円の扉に挟まれた鋼の輝きがあったけれど、ここにはそれがない。
 ――あ、そうか。
 ふと、手元に目を遣ってイコは苦笑した。
 周りを穴が空くほど凝視しなくても、この西の建物は東とは全然違うという証を持っていたことに気が付いたのだ。
 わずかな光源を反射して鋭く光り輝く手中の鋼は、あの東の建物で手に入れたものなのだから。
 どんなに似ていても同じではない。当たり前だ――ここは初めて訪れる場所なのだから。
 ひと通り辺りを見渡し、特に目立つ異常もないことを確認してから、イコはヨルダを呼んだ。ヨルダがゆっくりと梯子を登ってくる間、イコは緊張を孕んだ目で周囲を見渡していた。
 同じではないとわかっていても、東の建物で起こった――出遭った出来事は良くも悪くも強く印象に残っている。
 ――ここでも、ヨルダが梯子を登りきった瞬間、影たちが現れるのではないか。
 どうしても、そんな不安が付きまとう。
 しかし不安は杞憂で終わった。梯子を上り終えたヨルダが石畳に立っても、周囲には何の異変も起きなかった。
 そのことにイコはほっと息を吐くと、改めて少女の手を握って建物内を気の向くまま歩き回った。最初の緊張が過ぎてしまえば、霧のお城の中で常に抱いている漠然とした不安より好奇心の方が勝ってくる。イコの視線は物珍しげにあちらこちらを彷徨っていた。
 建物の基本的な造りは東と同じようで、さらに奥へと続くふたつの出入り口は固く閉ざされていたが、開き方は東と変わらない。左右の壁沿いに延びるそれぞれの階段の先で、鉄の扉を吊るすロープを切ってしまえばいいのだ。それに、今のイコの手には初めから鋭く輝く剣が握られている。
 そこまで考えた所で、イコの足が止まった。
「……どっちの入り口からあけようかなぁ」
 そんな贅沢な悩みも東の建物ではなかったことだ。
 しばらく悩んだ結果、どうせ両方開けるつもりであることに変わりはないのだし、と特に理由もなくまずは向かって左――東の建物なら、水の坂に通じていた方の入り口を開くことに決める。
 ヨルダの手を引いたまま階段を上り、鉄の扉を吊るすロープの下に立つ。
「せーのっ」
 イコは掛け声とともに軽く飛び上がり、重力に引かれるまま、掲げていた剣を振り下ろした。すとん、と下ろされた刃は容易くロープを切り裂き、大きな物音を立てて閉ざされていた入り口が開かれる。
 予想していた通りではあったが無事に入り口を開くことができ、イコの口許に安堵の笑みが浮かんだ。
「よし、じゃあつぎはもうひとつの入り口だね」
 反対側の入り口も開くため意気揚々と階段を下り、その足が再び石畳を踏み締めたその時――周囲を満たす静寂の質が変わった。そして無音の世界に響き渡る不吉な音。
 とっさに壁際に寄り、ヨルダを後ろ手に庇ったイコが目にしたのは、まるで石畳に底の見えない奈落の穴が穿たれたようにも感じさせる、揺らめく漆黒の淵だった。そこから現れ出た黒い影たちの両眼に宿る青白い焔が、一斉にイコを――イコを素通りしてその背後に佇む光より眩い白色に向けられる。
 イコは片手にぶら下げていた剣を持ち上げ、眼前に構えた。何度も何度も振るっていく内に身体が自然と覚えた、素人なりに少しでも剣を振りやすい構え。
 柔らかな少女の手と、固い剣の柄。
 両方を握る手に力が籠められた。



 ――ばさり。
 不吉な羽ばたきの音が頭上から降ってくる。しかし迂闊にそちらに目を向けるわけにもいかなかった。周囲の薄闇に決して紛れれることのない色濃い影たちが、あっという間にイコとヨルダの周りを囲う。
 視界いっぱいに広がる漆黒と青白い焔のような揺らめきに、ヨルダを背後に庇ったイコは影たちを近付けないよう剣を振るって牽制しようとする。
 鋼の輝きが一閃される度に、剣の先にいた影はその煌きから逃れるように身を引く。しかし、その他のふたりの背後に迫っていた影たちは容赦なく、邪魔なイコに豪腕を叩きつけてくる。かわしきれず弾き飛ばされたイコに頓着せず、影たちはそのままヨルダへ漆黒の腕を伸ばした。
 ヨルダの白が影たちの黒に埋もれていく。跳ね起きたイコは今にもヨルダを抱えて飛び上がろうとする影に向かって剣を横薙ぎに払った。たまらず抱えていた手を放した影からヨルダを取り戻すと、何とか壁際まで寄ろうと駆け出す。
 すぐに周囲を影たちに取り囲まれ、イコは無我夢中で剣を振った。いくら斬っても、追い払っても、次から次へと影たちが迫り来る光景に、折れそうになる心を叱咤する。
 何度も弾き飛ばされ、何度もヨルダを連れて行かれそうになった。その度に、イコは何度でも立ち上がり、何度でもヨルダを取り戻すために手を伸ばした。
 それを何度繰り返したか――どれほど剣を振ったかも覚えていない。気が付いた時には、視界を埋め尽くすばかりだった影たちは、残り2体になっていた。
 荒い息を吐きながらイコは下がりかけていた剣をしっかりと構え直した。
 ばさり、と上空から聞こえる羽ばたきの音と同時に降ってくる影に、叩きつけるように剣を振った。一撃、二撃、剣が振われるたびに漆黒の煙が巻き散らかされる。後ろに下がりながらわずかによろめいた影に更に追撃の一撃を与えようと剣を振りかぶったイコは、背後から感じる圧迫感と足音に即座に振り返った。
 漆黒の翼を持った影は退けただけで倒しきれていなかったが、イコは迷うことなく目標を背後の、ヨルダに手を伸ばす巨体の影に変更した。大きく横薙ぎに払われた一撃に、影は大きく後ろに跳び退る。それでもイコの剣は影の身体をわずかにかすり、振った直後の剣先に纏わり付いていた黒煙はすぐに空気に溶けていった。
 イコは剣を振り切った勢いそのままに更に踏み込んで、体勢を立て直し今にも襲い掛かろうとしてくる巨躯にもう一度剣を叩きつける。
 何度か剣を漆黒の巨躯に叩き込んだ所で、大きく身体を揺らせた影は次の瞬間どう、と音を立てて広間の石畳に仰向けに倒れこんだ。その巨躯がぴくりとも動かず、更には少しずつ蒸発するように立ち上る煙と共に、今や煙と化した身体が空気に溶けていく。
 それに一息つく暇もなく空を舞って降り立つ影が再び背後に迫っていた。
 けれど、これが最後の一体だ。
「――っやあっ!」
 飛び上がり力いっぱい振われた剣を受け、影は黒煙を撒き散らしながら固い石畳に叩きつけられた。



 すべての影と、漆黒の淵が消え去ったのを見届けて、イコは溜め込んでいた息を吐き出した。しばらく息を整え、落ち着いてから顔を上げる。
 開いた入り口はひとつだけだ。まだもうひとつ残っている。
 ヨルダを振り返ると、ヨルダの方も案じるようにイコを見つめていた。だいじょうぶだよ、と明るく笑いながら怪我もない証拠に両腕を大きく回して見せると、ヨルダの口許が緩んで微笑の形に緩やかな弧を描いた。
「ヨルダも……だいじょうぶだね」
 ヨルダが怪我をした様子も、疲れた様子もないこと見て取ったイコは、よかった、とヨルダと似た笑顔を浮かべた。そのまま反対側――奥の巨大な円盤状の扉から向かって右端の入り口を開くためにもうひとつの壁沿いの階段を上り、同じように壁から伸ばされていたロープを剣で切り落とした。
 影たちが現れたのはつい先刻のことだ。イコはロープを切ると同時にヨルダを後ろ手に庇うと、油断なく周囲に視線を配り始めた。
 何も異変は起こらず、静寂を破る不吉な音も聞こえない。
 何呼吸分かの間を空けた後で、イコは慎重な足取りでヨルダとともに階段を下りていった。石畳に降り立つと一旦足を止めて、再び様子を窺う。そうしてしばらく待っても何の異変も起きないことから、今度は影たちが出てこないと確信したイコは緊張を解いて構えていた剣を下ろした。
 それから開いたふたつの出入り口を順に見て回り、確かに入り口が開いたことを確認すると、イコはどちらから進もうか考え込んだ。
 ヨルダに「どっちから行こうか?」と窺うように視線を向けると、視線に気付いたヨルダからまっすぐ視線を返される。
「えーと……ヨルダはどっちから行ったらいいとおもう?」
 二つの入り口を交互に指差しながら尋ねてみるが、ヨルダは小首を傾げるようにしてイコを見つめるばかりだ。
 この建物の構造を想像してみる。
 もしもこの西の建物が、基本的な構造や仕掛けが東の建物と同じならば――
「えーと……たしか、水がながれていたのは左だった」
 同じ構造だとしたら、結局両方の入り口をくぐらなければならないことは変わらない。
 イコは東の建物の内部を思い起こしつつ、今度は東の建物と違う進み方をしてみようと、そんなことを考えて左の入り口をくぐっていった。




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