32.西の崖

 石像の奥に隠されていた入り口をくぐり、城壁の向こう側へ出ると、そこには見慣れた空間が広がっていた。
 正門へ行くために必ず通らなければならない場所であり、そして東の断崖に建てられた反射鏡のある建物へと続く回廊に通じる場所でもある――そこは跳ね橋が並ぶ霧のお城の玄関だった。
 今やほとんどの橋が降ろされ道を繋げている中、ふたりが出てきた露台から伸びる跳ね橋だけが引き上げられたままである。そのため、その露台だけがまるで離れ小島のように周囲から孤立してしまっていた。
 ただし、完全な行き止まりと言うわけでもない。向かいに見える露台――東の崖の回廊へと続いている一角――と同じく、ふたりが立つ露台奥にも入ってきたものとは別の出入り口が開けられている。
 イコはヨルダの手を引いたまま、迷わずもうひとつの出入り口に向かった。
 出入り口を通り城壁の外側に出ると、再び風が強く吹きつけてきた。高い城壁に遮られがちだった視界も一気に開ける。
 眼前に広がるのは、初めて足を踏み入れた場所だと言うのにどこか見覚えがあるような景色だった。背後に聳える城壁、長く続く回廊。そして回廊の先の断崖に建てられた建物。ほんの少し視線を下げると視界に飛び込んでくる巨大な正門。
 ――あ、そうか。
 イコはようやく見覚えのある理由に思い当たり、また、まったくの初見というわけではないことを思い出した。
 それは東の崖上を走る回廊で目にした景色ととてもよく似ていたのだ。
 露台を通って出てきた場所は、西側の回廊だった。
 東側の回廊から臨める景色に似ていたこともあるが、何よりそこを通った時に反対側――西側の様子も見ていたのだから、この光景に見覚えがあるはずだ。
 違うことと言えば、正門を挟んで東側の一帯とは対称になっている――回廊が延びる先も離れの建物がある崖も右側つまり西にあり、反対に正門は回廊の左側に見える――ことと、巨大な正門の半面が強い輝きを放っていることだった。
 イコにとって、東の反射鏡を開放してから西の回廊に至るまでは、ずいぶんと長い道のりを通ってきたつもりだった。しかし、いざ西の回廊に立つとこれまでの道程もあっという間の出来事だったように思われた。
 それは、いよいよ終わりが見えてきたためかもしれない。
 ――そう、きっと、西の反射鏡の光を通すことができれば。
 ――正門の、残された半面に光を与えることができたなら。
 ――そうすれば、きっと。



 イコは崖の上に建てられた建物に向かう前に、一度背後を振り返ると城壁に掛けられた長い梯子に目をやった。
 東側の城壁に掛けられた梯子の先には、跳ね橋を下ろす仕掛けの設けられた露台への入り口があった。西側も対称なだけで基本的な構造が同じならば、この目の前の梯子の先には残りの跳ね橋を下ろす仕掛けがあるはずだ。
「うーん……」
 梯子を前にイコはしばし考え込む。
 イコはどうせなら先に跳ね橋を下ろしておこうかと考えたのだが、東の反射鏡の光を通した時、微かに聞こえた音のことが気になった。あの音を聞いた時に予想した通り、東側の梯子を登った先にあった入り口の開いた音だとすると、やはり西側も反射鏡の仕掛けを動かさなければ入り口が閉ざされているのかもしれない――けれど。
「……もしかしたら開いてるかもしれないし」
 よし、とひとつ頷いて、イコは梯子に手を掛けた。さっさと登って様子だけでも見ておこう、と素早く梯子を登り始める。
 カンカンカン、と小気味良い早めのリズムで梯子を登った。しかし、梯子を登りきった先の光景にイコの顔がしかめられた。すぐ目の前に固く閉ざされた扉があったためだ。
「あー……やっぱりだめかぁ」
 試しに押してみたり手にした剣で思い切り叩いたりもしてみたが、閉ざされた扉はびくとも動かないし、近くに扉を開くような仕掛けもない。東西の回廊で、左右対称である以外に基本的な構造が同じだとすると、やはり反射鏡を開放した時聞こえてきた音は東側の入り口が開いた音だったのだろう。東側の跳ね橋を下ろす仕掛けがある露台へ通じる入り口は――引いては西側の入り口も――反射鏡か、あるいは三つの円盤状の扉と連動する仕掛けになっていたということに違いない。
 つまり、まずは西の反射鏡の光を通すことが先決ということだ。
 また長い梯子を下りなければならないことに多少うんざりしつつ、目指す方向がより鮮明になった分、梯子を登ったことはまったくの無駄でもなかった、と半ば自分に言い聞かせるようにして、イコは思わず吐きそうになったため息を無理矢理飲み込んだ。
「よし、はやく下りよう」
 より明確になった目的に進むため――何より、ヨルダを一人待たせたままにしておきたくないし、と、梯子を下りようとした少年の動きが止まる。
 待つように言わなかったせいだろうか。
 梯子をゆっくりと登ってくる白が見えたのだ。
「いまさら、のぼらなくていいんだよ、っていってもつたわらないかな、やっぱり……」
 ヨルダはしっかりと手元を確認するようにして登ってきているため、改めて遥か頭上に目をやる様子はない。もちろん、呼びかけて注意を上に向ければイコの姿も当然見えるだろう。そうすれば身振り手振りで途中からでも「もう梯子を登る必要はない」ということを伝えられるかもしれない。
 しかしそれは同時に手元や足場への注意が散漫になりかねない、ということでもある。
 どうしようか、と悩んだのは結局ほんの一瞬のことだった。
「……手とかすべらせたら、たいへんだし」
 イコは梯子から上がる場所を空けると、ヨルダが登りきるのを待つことにした。
 翳ることのない淡く光る白が、ゆっくりとであったが確実に近づいてくるのを見守る少年の口許が自然と綻ぶ。
 ただ、何も言わなくとも追ってきてくれたことが嬉しかった。



 その後、すぐさま梯子を下りたふたりは、西の回廊を進み、崖の上の建物の前まで辿り着いた。
 建物の外観も東側で見たものとほとんど変わらなかった。
 入り口の前には東側と同じように角の生えた子どもの石像が置かれている。
 石像に近付くとこれまでと同じようにヨルダから青白い閃光が迸り、それに呼応して輝き出した石像がふたりに――ヨルダに道を開けた。
 建物の内部へ、引いてはその奥にあるはずの反射鏡へと通じる入り口を前に、少年の喉が、ごくり、と鳴った。
 最後の大仕掛けを動かすため。
 固く閉ざされた扉を開くため。
 霧のお城から外へ出るために。
「――行こう」
 ふたりは建物の内部へ足を踏み入れた。




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