29.歯車

「――うわっ!」
 目の前に広がる光景に、イコの口から驚きの声が上がった。
 そこは、広大な空洞――洞窟になっていたのだ。
 整然と造られた城の様子は跡形もなく、周囲を取り囲んでいるのはむき出しの岩壁である。
 イコとヨルダ、ふたりが出てきた場所は、岩壁に沿って設けられた、木材を組み立てて造られた通路になっていた。
 出てきたばかりの通路から動くことを忘れた様子で、イコは呆然とした面持ちのまま洞窟内を見渡す。
 洞窟内は十分に明るかった。しかしその明るさは松明などの炎による赤味を帯び、絶えず揺らめく明るさではなく、太陽が持つ真っ直ぐで鮮烈な白い明るさだった。
 更に、轟々と唸る風の音と、ザアザアと降り注ぐ水音が洞窟内に絶えることなく響き渡る。
 水音の正体はすぐに知ることができた。洞窟内の岩壁から、細い滝のように水が流れ落ちている箇所がいくつか見られたからだ。細い滝といってもそれは幅のことだけで、水流の勢いは激しいものだ。
 どうやら自然に湧き出た水が流れ落ちているのではなく、意図的に集めた水流を岩壁に排水口を設けてそこから流し落としているようだった。
 ――そういえば、水のながれているところってけっこうあったっけ。
 イコはこれまで通ってきた道のりを振り返った。
 通ってきたばかり滝があった部屋もそうであるし、滝のもととなっていた水路など、水が関ってくる場所はいくつかあった。水を止めてきてしまった所もあったが、そもそもそういった水を使用した仕掛けなどがあると言うことは、それだけ大量の水を循環させる機能が霧のお城にあったということでもある。
 そう考えれば、ただ漫然と水を外に垂れ流すのではなく、水の流れを整備しているとしてもおかしくないだろう。
 それから、イコは明るい方へ惹かれるようにして首を巡らせた。すると、ぽっかりと空いた巨大な出入り口が目に飛び込んでくる。
 光に真っ白く染められた岩戸の向こうへ――あるいは向こうから――岩壁沿いに通路が延びているのが見えた。その通路も、今ふたりが立っている場所と同じく、木材で組み立てられた通路だった。決しておざなりなものではない、しっかりとした造りの通路ではあったが、造形よりも通路としての機能を最優先させる造りは、この洞窟が城の表舞台としてはありえない――本来、人目に付くことのない城の裏側である、ということだろうか。
 そこまで考えた所でイコは、はっ、として顔を上げた。
 今更ながらに、完全に足を止めてしまっていたことに気付いたのだ。
「ごめん、ぼーっとしちゃってたね――行こう」
 離れかけていた手を繋ぎ直し、イコはヨルダに声を掛けると木造の通路を進み始めた。
 出て来てすぐの通路はすぐに下りの階段が岩棚へと続き、ふたりはごつごつとした岩肌の地面に降り立った。近くの岩壁から細長い滝が流れ落ちて地面を濡らしているため、岩棚の上は滑りやすくなっている。幸い、そこは狭いわけではなくふたりが並んでも充分すぎるほどには広かったので、あまり端によって誤って落ちないようにだけ気をつけ、延びる道なりに進んだ。
 再び木材で組み立てられた通路が現れ、掛けられた梯子を登って通路の上に立つ。
 出て来てすぐの通路からでは岩壁が陰になり見え辛いところもがあったが、この場所からだと洞窟内のほぼ全体を見渡すことができた。
 滝の水しぶきと、外から差し込む鮮烈な白光のせいだろうか、遠方――特に下の方はもやがかかって朧にかすんで見える。
 それでも、何気なく滝のひとつを追っていた少年の視線は、滝が流れ落ちる先にあるものを確かに捉えた。
「――なに――?」
 思わず口をついて出ただけのはずの言葉は微かに震え、掠れて響いた。
 細長い滝の先に遠目から見てもわかるほど巨大な水車がある。激しい勢いを持って落ちる水流によって水車は回り、回る水車が動力源となって同じく巨大な歯車がゆっくりと、しかし確実に回転していた。そしてひとつの歯車の回転は違う歯車に作用し――連動して、いくつもの巨大な歯車が回転し続けている。
 そして、これらの歯車が動かしているのだ。
 ――霧のお城を。
 それは初めて見る――この霧のお城に来てからでさえ――目にした今でさえ想像もつかないほどの大掛かりな仕掛けであったが、それを凄いと感嘆するより先に、ぶるり、とイコの身体が一度大きく震えた。
 本来、それらはただの機械の塊のはずであるのに、とてもそんなものには見えなかった。
 粟立つような、言い知れない感覚。
 ――霧のお城は、生きている。
 ゆっくりと、しかし止まる気配もなく滑らかに動き続ける歯車を見て、そう思う。
 在り続けたのではなく、生き続けていたのだ、と。
 今も、生き続けているのだ、と。
 ――ここは、なに。
 どこにいるのか、ではなく、何の内部にいるのか。
 湧き上がる恐怖は未知にものに対するものではなく、圧倒的に強大なものと対峙してしまった時に現れる――それは畏れにも似た感情だった。
「――イコ」
 息すら潜め、身体を強張らせたまま動きを止めたイコの耳朶に、優しい音が触れる。
 ぎこちなく首を巡らせたイコの眼に映ったものは、ほんの微かに微笑を浮かべた、音の主――真白い少女の姿だった。
 だいじょうぶだと、安堵させるように微笑みを浮かべるヨルダに、けれどイコは胸騒ぎを覚えずに入られなかった。
「ヨルダ……?」
 イコが訝しげにヨルダを覗き込むと、ヨルダもどうしたのかと小首を傾げる。その様子は、普段とまったく変わりない姿ではあったのだが。
 それでも、イコは気付いてしまったから。
 微笑みの中の寂しさに。
 透徹した眼差しを横切る哀しさに。
 まるで、何かを諦めているような儚い姿に。
 ――くやしい。
 ヨルダにそんな表情をさせてしまうことが。
 イコは大きく息を吸い、下腹部と目に力を込め、きっ、と歯車を、周囲の壁を、そして天井を睨みつけるようにした。
 ――ぼくはだいじょうぶ。
 ――ヨルダにだって、あんなかおさせない。あきらめることなんてないんだ。
 それは、イコなりの霧のお城への宣戦布告だった。
 それから、強張りながらも笑みを浮かべてみせる。
「ヨルダ、ありがとう。――だいじょうぶ、行こう」
 ――いっしょに。



 木造の通路を進んでいくと、途中で床が抜けている所があった。長い年月の中ですっかり朽ちてしまったのだろう。
 先にイコが床の抜けた穴を跳び越えた。思い切り助走をつけ、何とか両足で着地できた。
 次にヨルダに手を差し出して呼ぶ。ヨルダも小さく助走をつけて跳び――飛距離がわずかに足らず、落ちていくヨルダの腕を掴んで間一髪引き上げた。
 通路は白く輝く巨大な岩戸の向こうまで続いていた。
 岩戸を出てしばらくは通路は掘られた崖が造る岩肌の天井の下を崖沿いに通り、やがて石造りの立派な通路へと変わった。天井も崖をくり貫いたごつごつとした岩がむき出しのものから、何本もの並んだ柱が支える立派な屋根に変わる。
 しかしその通路も長くは続かず、すぐに通路の終着点に辿り着く。
 道は終わっていたが、そこには昇降機があった。崖から吊るされている状態の昇降機は、下へ降りるためのもののようだった。手摺から身を乗り出して下を見ると、薄っすらと霞む視界の先に、同じように断崖沿いに延びる通路が見える。
 どうやら先に進むためにはこれに乗らなければならないらしいと判断して、イコはヨルダを伴い昇降機に乗り込んだ。
 昇降機の内にはもはやすっかり見慣れたレバーがあった。イコはヨルダも完全に昇降機に乗り込んだことを確認すると、崖壁と向かい合う形でレバーを動かした。
 ――ゴウンッ!
 すると、轟音と共に周囲の景色が動き出した。
 ただし、下ではなく崖から突き出されるように、背後の空間へ。
「……へ?」
 予想外の動きに、イコはきょとん、と目を瞠った。
 昇降機を吊るしていたクレーンの大半は崖の中に内蔵されていたらしい。レバーを動かしたことでまずはクレーンが動き出したのだ。
 ガシャン、と音を立てて崖の中に隠されていた部分が完全に露わになると、今度はガラガラと音を立てて昇降機を吊るしていた鎖が伸ばされ、視界が下がり始める。
 昇降機は下の通路に到着すると、ようやく動きを止めた。




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