28.滝2

 六角形の排水口をくぐり抜けて、滝の流れていた部屋へと戻る。
 排水口のすぐ真下にある踊り場から階段を下りると壁に沿って延びる通路に出た。そのまま通路を通り、庭へ通じる出入り口の正面に架かっている吊り橋を渡ったイコとヨルダは、向かいの通路の左隅に置かれたソファには寄らず右に延びる通路を進んだ。壁に沿って長く下る階段を下りて、部屋の最下層に辿り着く。階段を下りきってすぐ目の前には、さながら蜘蛛の糸のような鎖が一番上の通路から垂らされていた。
 注がれる水をせき止めたことで、水場となっていた場所から溜まっていた水がなくなっていた。もっとも水がなくなったと言っても、取り残されたわずかな水が小さな水溜りをいくつか作り、露わになった石床はいまだ水気を含んでいる。しっとりと濡れている石床は外から差し込む光を受けてちらちらと輝きを散らしていた。
 水場だった辺りは、すり鉢――というほどでもないが、ちょうど水との境目だった所から石床が下りの急斜面に変わり、更に斜面の先では大きな段差が二段続いていた。急斜面とイコの背丈ほどもある段差を二つ降りて、ようやく水溜りの残る石床に立つことができる。ただし、他に複雑な仕掛けがあるわけでもないので、高さのある段差を下りる時に足を滑らせたり、着地に失敗して転ばないよう気をつければ、下へ降りることに特に問題はなさそうだった。
 ほんの少し目線を上げれば、滝がなくなったため、瀑布に隠されるようにしていた石像が今はよく見える。
 聳える壁には、滝の裏に隠されていた通路があったのだ。通路の奥に鎮座する角の生えた子どもの石像が更に奥への道を塞いでいる。最下の地面から見比べると、通路が延びているのは壁の高さから見ればずっと下の方だが、それでもイコの背丈よりはずっと高い位置にある。何の足場もなしによじ登ることはできそうにない。
 しかし幸いというべきか、水が引いた床の上には、イコが上――水車のある中庭の水路から落とした大きな木箱がある。あの木箱を足場にすれば、石像のある通路に登ることもできるだろう。
 木箱が落ちた周辺は平坦な地面が続いているので、石像のある通路が空けられた壁のすぐ間際まで木箱を運ぶことに問題はない。
 そもそもの木箱を落とすきっかけとなった、「木箱を飛び石代わりに使う」という目的とはまったく別の理由で木箱を使用することになってしまったが、木箱を落としたことが結果的に無駄な行動にならなかったことに、イコはほっと胸を撫で下ろした。そして、「行こう」と石像を指差してからヨルダを伴って木箱へと向かった。
 その足が、かつての水場との境目を越え、段差を飛び下りながら木箱に近付いた時――
 ――音が、遠のく。
 音が消えていく世界の中で、一際高く胸を打つ鼓動。
 ――くる!
 目の端に、沸き立つ漆黒がちらつく。
 自分たちのものではない足音と、不吉な羽ばたきの音が反響する。
 纏わり付き、身体の自由を奪うような重苦しい空気を振り払い、イコはヨルダの手を引いてとっさに動き出した。その目前に文字通り黒い影が立ち塞がる。
 部屋の最下層――もっとも陽が当たらず色濃い影が落とされ暗く沈むその中で、より鮮明に映る漆黒が蠢く。
 両の目に灯された、けれど周囲を照らすことのない暗い輝きは、ふたりを――否、ヨルダをただひたすらに見据えていた。



「――やぁっ!」
 ヨルダへ漆黒の腕を伸ばす影に、イコのなぎ払った剣が叩きつけられる。一撃目で影がひるんだ隙を見逃さず、続けざま二度、三度と剣で打ち据え、影がどうと倒れるや否や、イコは迫り来る他の影たちから距離を取ろうとした。
 背後に壁とできるものがなければ、他方向から同時に迫られた時、容易く背後を取られてしまう。しかし、壁や柱のあるところまで移動しようにも、追いすがってくる影たちが邪魔で移動もままならない。
 影たちは執拗にヨルダを狙う為、イコを避けて大きく回り込む影もいれば、空を飛んで頭上を越えてヨルダに迫ろうとする影もいる。そして当然、障害物――イコ――を排除して最短の距離でヨルダを目指す影も。
 イコはとにかく、ヨルダに近付く影に向かって次から次へと剣を振るった。時には近寄ってくる影を大きく薙ぎ払った一撃で牽制し、あるいは連続して剣を叩きつけ影を叩き伏せる。影が一旦身を引き――もしくは倒れ伏してもイコは動きを止めることはなく、今度は反対側から迫ってくる影に立ち向かう。剣が間に合わない時はヨルダの手を引いて影の手から逃れようと走った。
 それを幾度となく繰り返している間に、気が付けば襲ってくる影の姿は見当たらなくなっていた。
 それでもしばらくの間、イコは肩で息をしながらも注意深く周囲に目を配った。
 深い物影に紛れて、今にも青白い揺らめきを灯した漆黒の人影が現れるのではないかと身構える。しかし、部屋に吹き込む風の音や、外で囀る鳥の声に気が付き、ようやくイコの肩から力が抜けた。
 大きく吐かれた息と共に、構えられていた剣がゆっくり下ろされる。
「よかった……」
 握った手には確かな温もり。
 この温もりを守りきれたことに、そして失くさずにすんだことに心から安堵した。
 それは、ヨルダと共に城を進んで、何度も繰り返されてきたことではあったけれど。
 痛みを耐えることはできても。
 恐怖を乗り越えることはできても。
 慣れることだけはできそうになかった。



 イコは石像がある通路の壁際まで木箱を動かし、それを踏み台――足場にして壁を登った。すぐにヨルダを引き上げ、石像の前に立つ。
 ヨルダから迸る青白い閃光が石像に吸い込まれ、閉ざされていた道が開かれる。
「――行こう」
 差し出された少年の手に、静かに少女の手が重ねられた。
 ふたりは新たな道を進んでいった。




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