25.跳ね橋3

 再び城壁の内側へと足を踏み入れたイコとヨルダは、つい先ほど降ろされたばかりの跳ね橋を渡った。跳ね橋を渡った先はシャンデリアの部屋へ続くバルコニーだ。そのまま部屋の中へ入ろうとしたイコだったが、そういえば、と思い至って足を止めた。
 部屋の入り口直前で立ち止まったイコは、視線を左に向けた。
 初めてこの場所に来た時のことを思い返す。
 前にこの場所に立ってからそれほど長い時が過ぎたわけでもないのに、過ぎ去って久しい遥か昔のことを思い出すように、その場所を見つめた。
 バルコニーの、シャンデリアの部屋の入り口から向かって左奥では、石壁の高い位置に設けられた小窓のひとつから伸びるロープが見えた。壁沿いに並び立つ柱の影に隠れて見えないが、確かそこには取っ手のついた大きな木箱があるはずだった。
 ほとんど変わりがないように思える、かつて通った道。しかし、確かに変わっているものは存在している。
 降ろされ、新たな道が繋がった跳ね橋もそのひとつだ。
 自然と強く握り締めた冷たく固い感触も、以前にはなかった変化だった。
 あの時、イコの手にあったのは木の棒だった。それでは何もできなかったけれど、今その手に掴んでいるのは鋼の輝き。未だに輝きを失っていない鋭い刃なら、頭上を走るロープを切ることもできるだろう。そうして何が起こるかわからないが、それでも行動することで確実に何かが変わることを少年は知っている。
 イコは記憶を辿るようにバルコニーの隅へと足を向けた。
 記憶の中にあるとおり、ロープのすぐ傍にある柱と、バルコニーの左奥側にある一段高さが低くなった柱、そしてその奥の柱にくっつけて足場代わりにした木の箱は変わらずそこにあった。散々、頭上のロープをどうにかしようと柱を登った時のことを思い返して、あの時と同じように柱を登った。
 まず木の箱を足場にすると、低い方の柱に手を掛け、そのまま柱の上によじ登った。柱の上に立ち、隣の、よりロープに近い柱と向かい合う位置まで移動する。辛うじて立てる程度の幅しかない足場の上ではほとんど助走をつけることができないため、身体中のばねを使うようにして向かいの柱へ跳んだ。やはり飛距離が足りず柱の上に着地することはできないが、縁だけでもつかめればそこから再び身体を持ち上げ、柱の上に登る事ができる。柱の上に登ったら、できるだけロープに近い場所まで移動した。もっとも、その場で剣を振るだけでは微妙に届かない距離がまだ開いている。イコはロープを見上げ、慎重に目測を定めて柱を蹴りだして跳んだ。跳んだことで近付いたロープに向けて、思い切り剣を振り下ろす。
 ロープはあっさりと切れ、小窓から伸びていたロープの先の方で滑車がからからと音を立てて回る。滑車を回し、切られたロープが中庭側へ落ちていったためだ。
 しかし石畳の床へと完全に落ちる前にロープが滑車に引っかかったらしく、ロープは下へ完全に落ちる前に落下を止め、バルコニーからロープが吊るされたようになった。
 滑車の回る音が途切れた後は、吹きすさぶ風の音と燭台に灯された火のはぜる音しか聞こえなくなる。
「……これだけ?」
 無事に着地したイコは、降ろされた衝撃で未だに微かに揺れているロープを見て、思わず一人ごちた。何かもっとすごい仕掛けでも動くのではないかと思っていたので、少々拍子抜けした感は否めない。
 ――無意味なことをしちゃったかなぁ。
 まあいいか、とすぐに気持ちを切り替えヨルダの元へ行き、再び手を繋ぐ。もちろん、ヨルダも一人で歩けないわけではないし、どうしても手を繋がなければいけないものでもない。手を繋いでいない方が機敏に動けることも確かだろう。
 しかし、どんな理由も、温もりを手にした時の安堵感に勝るものはないから。
「行こう」
 ヨルダに声を掛け、シャンデリアの部屋へと入って行った。



 その部屋の中も、記憶にあるものとほとんど変わりがなかった。
 ふたりが立つ中二階の通路の真下には、変わらず開かれた入り口があるのだろう。
 壁の周囲を走る通路。橋を落としたため大きく開いた部屋の中空。部屋を半ばから断絶する床に大きく空いた奈落。その上を渡るのはバルコニー側の入り口の真向かいにある入り口側から通じる、長い坂道と貸した橋の道だ。
 そして奈落の向こうの床上に辛うじて引っかかっている状態の、落とされた――今はもうすべての灯りが消えたシャンデリア。
 シャンデリアから消えた火は、少なくともそれだけの時間が経ったのだということを、漠然としたものではなく確かな形を持って伝えてくる。
 ふと、これまでの道のりに思いを馳せたイコだったが、すぐに我に返ると通路を進み始めた。
 正門の所へ行く為には、坂道と化した橋を下りなければ行けない。時計回りに、奈落を渡る橋の始点がある向かい側へと進み――
 足が、止まる。
 それは、澱んだ水底にも似た、沈黙。
 闇色の淵から、漆黒の影が湧き出してくる。
 ばさり、と羽ばたきの音が思いのほか近くから聞こえた。
 その瞬間、イコはヨルダの手を引いて走り出してた。



 イコが真っ先に目にしたものは、対角線上の通路の隅に現れた影の淵だった。
 しかし聞こえてきた音から察するに、下―― 一階の床にも闇をたゆたせる淵が現れているのだろう。
 かつてあった石像の扉はすでに開かれている。迸る閃光で影たちを一掃することはできないから、襲い掛かってくるものたちをすべて自ら打ち倒していかなければ、先へ行けない。
 そうわかっていてもなお、迫り来る影たちを振り切れないだろうかと駆ける少年の――少年に手を引かれ共に駆ける少女の周囲を黒が取り囲む。
「……このおっ!」
 イコは目の前に立ち塞がった漆黒の巨躯に剣を振った。しかし、大きく振った一撃によって生まれた隙を的確に突かれ、背後に迫っていた影の一撃に少年の身体は簡単に弾き飛ばされる。障害となっていたイコが離れれると、翼を持った影がヨルダを抱え上げた。
「……!」
「ヨルダ!」
 小さな悲鳴に、身を起こしたイコは後を追おうとしたが、ヨルダを抱えた影は壁沿いの通路の手摺を越えて悠々と降下していく。
 飛び降りて無事に済む高さではなく、かといって奈落の上を通る坂道と化した橋を下って行くのでは時間が掛かり過ぎてしまう。しかしヨルダが、優しい白光が、真黒い影に飲み込まれていくのをただ見ているだけなどできるはずもなく、遠回りでもいいから、と駆け出そうとしたイコの足が瞬間、止まった。
 チャリ……と、金属のこすれる小さな音が確かに聞こえた。
 誘われるように振り返り、音の聞こえた方――通路の曲がり角を見遣ったイコの目に飛び込んできたものは、手摺の崩れた一角からから垂らされている長い鎖だった。
 駆け回る振動のせいか、それとも羽ばたきが起こした風によるのか、微弱に揺れる鎖がチャリ……と微かな音をたてている。
 ――こんな鎖、あったっけ……?
 一瞬そんなことを考え、動きが止まりかけたイコだったが、すぐさま鎖に飛びつくようにして駆け寄った。
 大事なのはかつて鎖があったかどうかではなく、この鎖を伝っていけばすぐに下に降りられるということ。ヨルダを助けに行けるということだ。
 ――はじめのときは気づかないでみおとしていたんだ、きっと。
 滑り降りるというよりは、ほとんど自由落下に近い勢いで鎖を伝いながら、そう結論付ける。もっとも、最初にこの場所を訪れた時、この鎖に気づいていたとしてもヨルダは鎖を伝っての登り降りができないから意味はなかったのだろうが。
 地面が近付くとイコは鎖から手を離して飛び降りた。着地するや否や剣を握り直す。鎖を伝った摩擦でじくじくと痛む両の手の平に眉根を寄せ、同時にひんやり冷たい鋼の感触を気持ちよく感じながら、黒い淵の中に身体の半ばまで沈みつつあるヨルダに向かって駆ける。
 立ち塞がる影たちを、剣で払い、退け、道を作り、一気に駆け抜ける。沈み、飲み込まれようとしながらも、それでも真っ直ぐ自分に向かって伸ばされる白い腕を少年の手が必死で掴んだ。
 ヨルダを一気に引き上げたイコは、そのままシャンデリアの部屋の外へ出ようと踵を返したが、翼を持った影や、もともと一階に現れていた影が立ち塞がり、周囲を取り囲もうと迫り来る。二階の壁沿いに走る通路に現れた影も、イコがヨルダを影の淵から引き上げている間に、奈落を渡る坂道を下りてふたりに向かって来ていた。
 ヨルダを背後に庇い、イコは剣を構えた。
 剣は震えることなく、真っ直ぐに向けられている。
 離れないために。
 進むために。



 すべての影が消えた後、シャンデリアの部屋を出たふたりは回廊を渡り、中庭を通って正門の前まで出てきた。崖上の回廊で見たように、巨大な正門の扉の半面は溢れんばかりに輝いていた。
 ――あと、半分。
 そうなのだと、確信というより願いに近い思いで、イコは眼前の正門を見上げた。
 それなのになぜか湧き上がる不安と、罪悪感。
 思わず隣のヨルダへと視線を移すと、向けられた視線に気付いたのだろう、同じく正門を見上げていたヨルダの顔がイコへと向けられた。少年の眼差しに何を感じたのか、ヨルダの美貌が、ふわり、と優しく笑む。
「……ヨルダ?」
 本来なら安堵をもたらすはずの優しい微笑。大丈夫だと、語りかけるようなその眼差しが、なぜか儚く、寂しいものに感じられ、イコの口から戸惑うような呟きが零れた。
 光を纏った少女は、ただ、静かに微笑んでいた。



 何となく釈然としないまま、上空に跳ね橋の架かる中庭へと戻る。
 西側の崖に立つ建物へ行くにはどうすればいいか考えながら、イコは先ほど切り落としたロープのことを思い出した。あれ以上どうにかなっているとも思えなかったが、見てみようと思い、ロープが吊るされている辺りへと足を向けた。
 正門から入ってきて、左側の回廊外側にある石畳の広場の一角で、先ほどのロープが揺れていた。
 ロープの真下まで行くと、跳べば届きそうな位置にロープがある。城壁から張り出したバルコニーから吊るされているロープなのだから、当然、ロープの位置は壁に近い。ロープを見上げていたイコは「あ」と声を上げていた。
 イコが見上げた先、ロープの吊るされたバルコニーの真下の城壁には、二列に並んだ全部で六つの大きな窓が設けられている。上下二段に三つずつ並んだ窓は、下の窓枠ですら跳んでも届くような高さにはない。何より、窓があるということはその向こうに部屋、もしくは通路があるということだろうが、肝心の窓は大きさこそあるものの格子で補強され、採光のための透明な壁、と言っても良いようなものだった。
 しかし長い年月によってこの場所も老朽化してしまったのだろう、二つの窓のガラスは格子ごとなくなっており、ひと一人が楽に通ることができるだけの空間を空けていた。それも、ちょうど良いことに、空いているのはロープの真正面にある上下二つの窓だ。
 ――あの窓からだったら、中にはいれる。
「ヨルダ、ぼく、いってくるね。ちょっとだけ待ってて!」
 きっと、そこには新たな道があるはずだ、という期待を胸に、イコはロープに飛びついた。もちろん、下で待つヨルダを連れて行けるようにしなければ、自分ひとりだけ進むのでは意味がない。
 ロープを上りながら窓までの高さを測る。かなりの高さがあるので、下の窓から思い切り手を伸ばしても、そしてヨルダがどれだけ手を伸ばして自分に向かって跳んでくれても届きそうにないことだけはわかる。せめてもう一段分――頭上のバルコニーにある大きな木箱分の高さがあれば引き上げることができるのに、と思った。しかしいくらイコでも、取っ手のついた大きな木箱は引きずることがやっとだ。抱え上げるどころか、わずかに持ち上げることもできない。
 ――このへやの中にあればいいんだけど……
 下段にあるガラスの失われた大窓の前までロープを登ると、イコは窓に向かってロープを揺らし、窓の向こうの部屋へ飛び込んだ。
 その中は、窓が上下二段に並んでいるだけあって天井は高く、それなりに広い部屋だった。それはもちろん、村にある家屋と比較しての基準であるので、城の部屋としては狭い部類に入るだろう。
 部屋の中にあるものといえば、右手側の壁に据付けられた火の灯った燭台とその隣に掛けられた途中で途切れた梯子、そして正面の壁沿いに伸びている上り階段くらいだった。梯子が掛かっている先は、壁が大きく切り取られている。どうやらこの上にも部屋がひとつあるようだが、燭台のすぐ脇に掛かっている梯子は下半分がなく、跳んでも手が届かない位置までしか梯子が伸びていない。そのため、上の部屋の中に入ることはできそうになかった。
 簡単に周囲を見渡しきれる部屋の中に、外の石畳に落として足場にできそうな木箱は見当たらない。
 仕方なしに、イコはまず階段を上り、階段の先の様子を窺った。階段を上ると、狭い踊り場のような空間に出る。天井が近い踊り場は薄暗く、階段を上り終わった左手側を見ると、そこには角の生えた子どもの石像が安置されていた。
 再び階段を下りながら他に何かないだろうかと視線を動かしていたイコは、入ってきた窓の上、上段の窓際の縁が、その上に立つことが可能と思われるほど出張っていることに気付いた。壁沿いに伸びる縁――狭い道を視線で追うと、正面にある燭台と梯子のある壁側に、縁の道から行ける入り口が開いている。位置関係からして、梯子の先の部屋へ通じるもうひとつの入り口かもしれない。
 イコは入ってきた窓際に立つと、目前で未だ微かに揺れるロープに飛び移った。落下途中で上手くロープを掴むことができ、揺れが多少収まってから再びロープを登り始める。
 上段の窓正面まで登ったイコは、今度は上段の窓から部屋の中へ飛び込んでいった。
 狭い足場から誤って落ちないよう左手沿いに縁を進み、先ほど見付けた入り口をくぐる。
 入った先の部屋の中は、例えば屋根裏部屋や物置を彷彿とさせるくらい狭かった。
 目に付くものはただひとつ、取っ手のついた木箱だけだ。ようやく見つけた足掛かりにイコは喜色を浮かべて駆け寄る。木箱の置かれた位置から下の部屋へ大きく空けられた壁まで、幸いにも途中に木箱が引っかかりそうな段差などはない。
 イコは木箱を引いたり押したりしつつ、小部屋から隣の部屋へと木箱を落とした。梯子を使って途中まで下り、梯子が途切れた先から下へ飛び降りる。更に木箱を動かすと、中に入るのに使用した窓ガラスの無くなった窓から、外の石畳の広場へ木箱を落とした。
「ヨルダ!」
 突然降ってきた――と思えたのだろう。木箱から身を引くように離れていた少女を呼んだイコは、思い切り腕を伸ばした。しばらく躊躇う様子を見せていたヨルダは、ややあってから箱の上に立ち、イコに向かって白い繊手を差し出す。それでも距離が足らず、ヨルダは飛び上がって少年の手を掴んだ。そのまま下に引かれそうになるのをこらえ、イコはヨルダを引き上げた。
 さすがに息が切れ、腰を下ろしたままひとまず休憩を入れる。荒い息で呼吸を繰り返すイコは、引き上げるためとはいえ強い力でヨルダの手を掴んだので痛くなかっただろうかと、心配そうにヨルダに目を遣った。そこにある、変わらない白い腕にほっと息を吐く。同時に、やはり心配そうな面持ちでイコを見詰めていたヨルダと視線が絡み合い、大丈夫、と力強く笑んでみせる。
「ヨルダ、あのかいだんを上ったらせきぞうがあったよ」
 立ち上がり、階段の先を指差したイコは、「あたらしい、みちだね」と嬉しそうに笑った。
 壁沿いの階段を上り、石像の前に立つ。
 ヨルダと石像の前で青白い閃光が走り、道を塞いでいた石像が動く。
 開かれた道の先で、水の流れる音が聞こえた。




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