24.東の崖2

 眩しいほどの蒼穹に、ひとつ、ふたつ、と増えていく漆黒を視界に納めた瞬間、イコはヨルダの手を引いて駆け出していた。
 背後の、たった今出てきたばかりの建物ではなく、ふたりの前方に延びる回廊の先へ――霧のお城に向かって。
 もちろん、前へ進む為に。
 三重の扉をもって最奥の更に向こうに反射鏡を隠していた、絶壁に佇む建物の中でできることはすべてし尽くした、という確信がイコにはあった。崖上の回廊を駆け抜けるふたりの頭上を走る光の道が新たな行き先を拓いているかもしれない。微かに聞こえた金属音はどこかの扉が開いた音かもしれない。
 だからこそ立ち止まるわけにも、下がるわけにも行かなかった。
 駆け出したことにはもうひとつ理由がある。
 蒼と光に満ちた空間を侵食するあまりにも不自然な黒は、今は遥か彼方に見える回廊の前方から現れたように見えた。そこは回廊が、お城に向かって途中で右へと折れ曲がった辺りだった。
 駆け出す寸前周囲に目を配ったイコだったが、ふたりが出てきた建物の近辺には何も変化がない。それは影たちが現れる、あの闇のたゆたう漆黒の淵が向こうにあるということだ。影穴の数と場所を把握しておかないと終わったか否かが把握し辛い。すべて倒したと油断して不意打ちされてはたまらない。
 イコは駆けながら両の手の中にあるふたつの存在を確かめるように握り締めた。
 左手が握る柔らかな温かさを守るのだと誓い、共に居たいと願うからその温もりを離さない。
 右手に掴んだ冷たく固い感触は、誓い、願ったもののために望んだ力だ。だからこそ、どんなに重くても放さない。
 空の蒼に点々と散った染みのようであった漆黒は、徐々にその大きさと輪郭を明確にしてくる。逃げ続け振り切れるとは思っていなかったが、影たちの動きは想像していた以上に速かった。霧のお城と平行して真っ直ぐ延びる長い回廊の半ば程――城に向かって折り曲がる角にすら辿り着くこともできず、黒い煙のような翼を羽ばたかせて空から急降下する影と、巨躯を揺らして迫り来る影に周囲を囲まれてしまった。
 イコは影たちを油断なく見据え、繋いだ手の中の温もりをいっそう強く握り、陽光を照り返し眩く煌く鋼を掲げる腕に力を籠めた。
 せめて向かってくる影たちを一度に視界に納められる場所まで移動しようと、囲まれたことで一度は止めてしまった足を再び動かす。
 イコは真正面に立ち塞がる漆黒の巨躯に向かって剣を大きく振るった。影が巨体を仰け反らせた隙に、僅かに空いた空間をすり抜けようとする。影が僅かに除いた先は、真っ直ぐ道が延びているだけだ。これなら抜けられる、そう思った瞬間だった。
 温もりを握った左手が、ぐい、と引かれた。引かれた、と感じた時にはしっかり握っていたはずの温もりが失われている。
 ぎょっとして振り向いたイコは、黒に覆われそうになっている白い光を見た。背後に居た影が、ヨルダを無理矢理イコから引き剥がしたのだ。
 ヨルダを抱え上げた影の背中に真黒い翼が現れるのを見て取ったイコは、影がヨルダを抱えたまま飛び立つ前に剣で切りかかろうとした。しかし、周囲に群がる他の影たちがイコの行動を邪魔する。
 イコが、黒い翼を羽ばたかせて空中に浮かんだ影に近付こうとした刹那、イコの視界が反転した。先ほど脇をすり抜けようとした巨体の影に殴り飛ばされたのだ、とイコが気付いたのは、回廊の床に強かに身体を打ちつけた時だった。強い力で殴られ、回廊に叩きつけられた衝撃で上手く動かない身体を起こそうともがく少年の周囲を不吉な黒が埋めていこうとする。
 多少、身体をふらつかせながらも何とか身を起こしたイコは、再び襲い来る一撃から辛うじて身をかわすと、霧のお城に向かって回廊を走りながら視線を空へ――ヨルダを抱えて飛んで行った影を探す。
「ヨルダ!」
 叫ぶような呼びかけに応える声が聞こえた気がして、イコは導かれるままに目を向けた。
 霧のお城の内部へ通じる出入り口付近へ降り立つ黒と、黒に隠されそうなまばゆい白。
 飛んでいた影が再び降り立つ――それが意味することを解っていたから、イコはわき目もふらず更に走る速度を上げた。
 影たちもイコを行かせまいと追ってくる。イコより身体が大きく一歩の幅が広い分、影は少しずつイコとの距離を狭めてくる。イコはすぐ背後まで迫る自分のものではない足音を聞きながら、それでも振り返らず、足も止めず、ただひたすらに前へ、ヨルダに向かって走り続けた。幸いにも、影はイコに向かって拳を振り上げる時どうしてもその足が止まるため、追いつかれても影がイコに攻撃しようと足を止めた瞬間、走り続けるイコと影の間に再び距離が生まれた。
 イコは角を曲がり――通り過ぎる間際、曲がり角近くの床に穿たれた真黒い淵にちらりと視線を走らせ――回廊の終わる付近の闇を湛えた影穴に飲み込まれようとしているヨルダの姿に、早く早く、とそれだけを想って足を動かし続けた。
 ヨルダの顔もほとんど影の中に沈み、イコが目にできるものが白い繊手だけになってしまった時、ようやくイコはその手を掴むことができた。
 ぐ、と力を籠めて沈んだヨルダを引き上げ――再びイコを横殴りの衝撃が襲う。辛うじてヨルダを引き上げることはできていたが、弾き飛ばされたイコを尻目に、悠々と白い輝きの傍らに屈み込む影の姿を、少年は見た。
 待て、と叫ぶ一瞬すら惜しんで、叫びだそうとした激情をも立ち上がるための糧にする。
 跳ね起きたイコは無我夢中で剣を振った。
 ひと振り目で、イコに近付いてきた影が怯えたようにいったん下がり、僅かばかりの空間が空いた。
 その隙を見逃さず、イコはヨルダを抱え上げた影へと迫り、そしてふた振り目――
 ぶんっ、と空気を鋭く切り裂きつつ横に払われた刃が、漆黒の影に沈みこんだ。
 剣に纏わりつく重苦しい手応えは木の棒を叩きつけた時と変わらず、しかし今はその時よりよほど容易く腕を振り切ることができた。
 ただ無闇に剣を振るって空気を切るのとは違う、ぴん、と張られたロープを断ち切るのともまったく違う、妙に生々しい感触。
 ――切った、その感触が手に残る。
 イコの、まだあどけなさを残した少年の顔が微かに強張った。
 飛び散ったもの――影の一部は、相変わらず黒くて煙のようであるはずなのに。
 煌く鋼の先では、辺りに撒き散らかされた漆黒の煙が空気に溶けて薄れ消えてゆくというのに。
 イコにはそれがまったく別のものに――空気に散りゆく漆黒が別の色に見えたような気がした。
 思わずそんなことを考え、イコが呆けていたのは一瞬のことだった。
 剣の一撃を受けてよろめいた影が抱えていたヨルダを落とす。回廊に落とされたヨルダが上げた小さな声に我に返ったイコは、咄嗟にヨルダの腕を掴んで立ち上がらせると、ちょうど城の外壁とイコ自身の間に少女を挟むようにして後ろ手に庇った。
 陽を照り返す鋼の輝きを警戒した様子で、それでも影たちは徐々に距離を詰めてくる。
 イコは迫り来る影たちに向かって、ただひたすらに剣を振るった。何度も上がりそうになる叫びを喉の奥に閉じ込め、奥歯を噛み砕かんばかりに噛み締めて。
 手には、切り裂く感触が残り続ける。



 気付けば動き回る漆黒はいなくなり、回廊の床で絶え間なく黒を沸き立たせていた深淵も風に吹き散らかされ、空気に溶けていった。
 その様子をどこか茫洋とした眼差しで眺めていたイコの肩がふいに、かた、と震え出す。
 ただ、恐ろしかった。それが何なのか、何によるものか、はっきり理解していたわけではなかったのだが。
 ただただ、恐ろしかった。
 ――ぼくは、なにをきったの。
 自身が震えていることにも気付かず、答えの出ない問いかけがイコの頭の中を巡り続ける。
 その時、震えているイコの肩に優しく触れたものがあった。
 白くたおやかな、温かい手。
 強張るイコに、柔らかな手は優しく触れた。肩に、背中に、頬に。
 宥めるような、清めるようなその動きに、身体の強張りは徐々にほぐれ――
 ぽろり、とイコの頬を一滴の雫が伝い落ちた。
 イコは優しい手に恐る恐る触れた。握り返されることに安堵して、ほう、と深く息を吐いた。
 思考が、感情が鮮明になる。
 ――こわくても、それでも、ぼくは望むから。
 剣の柄を強く握った。
 触れる温かさを想った。
 身体の震えは、止まっていた。



 落ち着いてから、イコは無我夢中で駆け抜けた回廊を振り返った。
 深い理由があったわけではなく、ただ、真円に開かれた三つの巨大な扉を通り抜け、真っ直ぐに伸びていった――回廊を駆け抜けたふたりの頭上を走っていた光の道はどこに通じているのだろうか、と思ったのだ。
 陽光溢れる中でもはっきりと目にすることができる光の道を、崖の上に立てられ、反射鏡を隠していた建物から辿るようにして視線を動かして追って行ったイコは、最初に霧のお城からこの崖上の回廊に出てきた時にはなかった変化に気付いた。最初の時は風景の一部として見逃していたもの。しかし、今、見逃せるはずもない存在となった、それ。
 ほぼ直角に折れ曲がっている曲がり角には、短い――と言ってもイコの背丈の倍以上の高さはあったが――柱のように突き出た壁がある。近くで見れば充分壁に見える曲がり角の一角は、遠目から見ると、むしろ巨大な台のように見えた。その巨大な台の上には、そこに据えつけられるに相応しい大きさのチェスの駒、あるいは胴の短い燭台のようなものが乗っている。巨大な台じみた壁は縦と横も当然長く、イコが両手を目一杯広げても端と端に同時に手を届かせることができない。それだけの面積一杯に鎮座するその鉄色の物体を例えた通り巨大な燭台とするならば、火が灯されるべき場所に揺らめく赤は見当たらず、しかし代わりに陽射しを凝縮したような白光が溢れんばかりに輝いている。
 炎の代わりに巨大な燭台の上部で輝いているのは、そこに据えられた、やはり巨大な球状の玉だった。
 霧のお城からこの回廊へ出てきた時、こんな輝きはなかった。
 なぜ今になって輝いているのか、その理由は簡単だった。空を走る光の道である。
 一直線にしか延びない光の道は、真っ直ぐ巨大な玉へと向かっていた。崖の上の反射鏡、閉ざされていた三つの円盤状の扉、そして巨大な玉、すべては同じ高さで連なっていたのだった。
 ――ああ、そうか。
 その連なりに気付き、イコはようやく腑に落ちた。
 つまり反射鏡はこのために――巨大な玉へ光を集積する為にあったのだ。
 そして、巨大な玉から溢れ出す光が何を意味するのか、それを知ることは簡単だった。ほんの少し身を乗り出して、右――西側の回廊との間の下方、正門へと視線を転ずれば、両開きの巨大な正門の向かって左、東側の扉一面がまるで巨大な玉と呼応したように、あるいはそこで蓄えられた光がそのまま扉へ移されているかのように輝いている。今にも光が溢れ出しそうなくらいに輝く東側の扉とは対照的に、西側、向かって右側の扉は閉ざされた――最初に正門を見た時そのままの姿で沈黙している。
 あの反射鏡が霧のお城の正門に作用する壮大な仕掛けのひとつだとするならば、もう片面の扉を同様に輝かせることができたなら、正門を再び開くことができるのだろうか。
 イコは西へと続く回廊と、回廊の先にある崖上の建物を見遣り、建物の奥にあるだろう西の反射鏡へと思いを馳せた。
「もうかたほうも光らせることができれば、開くことができるのかな」
 寄り添う少女に問いかけながら、イコの視線は正門に向けられたまましばらく微動だにしなかった。
 相変わらず返事はないものの、きっと開く、イコはそう確信していた。
 それは、正門を彩る光がヨルダの光と似た色合いをしていたせいかもしれない。



 一度、正門を間近で見てみよう、と霧のお城の中へ足を向けたイコは、出入り口傍の外壁に掛けられた長い梯子に今更ながらに目を向けた。ずいぶん高い位置に足場があるようだが、高すぎて梯子を登った先に何があるかまでは見ることができない。
 ただ、絶壁の離れで、最後の一つ目の扉が開かれた時に聞いた金属音が今でも耳に残っていた。
 ――この先に、開かれた扉があるのかもしれない。
 思い付きにしか過ぎない考えだったが、確かめてみるに越したことはない、とイコは梯子に手を掛けた。
 カン、カン、とリズムよく梯子を登り――半ばほどまで登ったところでイコは一度登る手足を止めた。見上げただけでも充分すぎるほど長い梯子だったが、いざ登ってみると思っていた以上に長く感じる。始めは自分ひとりで上まで登って何があるか確認して、とイコは考えていたのだが、このままではかなりの時間ヨルダをひとりにしてしまう、と思ったのだ。しかもこの高さでは、何かあったときすぐに駆けつけることは――簡単に飛び降りるような真似はできない。
 しばし逡巡していたイコだったが、やがて下に向かって大きく呼びかけた。
「ヨルダ! ヨルダも登ってきて!」
 時折回廊に飛んでくる白い鳥を眺めていたヨルダは、イコの呼び声に気付いて顔を上げると、ややあって梯子に手を掛けてゆっくりと登り始めた。そのことを確認してから、イコも再び梯子を登り出した。
 梯子を登った先には、思ったとおり開かれた出入り口があった。覗いて見ると、やはり向こう側は跳ね橋のある中庭側へ出るようだ。
 イコはヨルダが登り終わるのを待ちながら、半面を輝かせた正門へと顔を向けた。視界に映るのは固く閉ざされた、けれど確実に変化のもたらされた扉と、その向こうで朧に霞む、世界。
 ――きっと、あと半分。



 ヨルダが登りきってから、手を繋いで開いた出入り口をくぐる。そこは城壁の高い位置から張り出したバルコニーになっており、いくつもの跳ね橋や中庭の様子を一望できた。それだけではなく、そのバルコニーには一台のレバーが設置されていた。
 イコが迷わずレバーを動かすと、音を立ててゆっくりと跳ね橋のひとつが下げられていく。跳ね橋が引き上げられていたことで、分断されていた道がひとつ繋がった。下を覗き込むと、新たな道が繋がったのは、ちょうどふたりの居る側、東側のバルコニーに掛かる跳ね橋だった。
 跳ね橋で繋がった先はシャンデリアのあった部屋のはずだった。これならば簡単に正門の前に行けそうだ、とイコはほっと胸を撫で下ろした。またこれまで辿ってきた道のりを戻らなければいけないのかと思い、少々うんざりしていたことは確かだったからだ。
 梯子を降りよう、と戻りかけたイコの足が止まった。
 はっとして向けられた視線の先には、今イコが手にしているものと同じ輝きがバルコニーの床に突きたてられていた。
 せり出した壁と壁の間に、隠されるようにしてあるひと振りの剣。
 かつて、この霧のお城で何があったのか、イコは知らない。
 けれどそれは、まるで誰かに託すためのようだと、イコにはそう思えてならなかった。



 床に突き立てられた剣が、自分が手にしているものと変わりないものだと確かめてからイコはヨルダを伴って梯子を下りた。先に下りたイコはヨルダが下りてくるのを待つ間、やはり何となく正門の方を見つめていた。まさか、下りてくるヨルダを下から見上げるわけにもいかないということもあって、視線のやり場に困っていたということもあったが。
 ぼんやりとしていたイコの頬を、梯子を下りきったヨルダのケープが優しくくすぐる。その感触で我に返ったイコは、照れ隠しのように、にっと笑みを浮かべて手を差し伸べた。
 手を繋ぎ、ふたりは城の中へと入って行った。




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