22.東の闘技場2

 イコは空から落ちてくる煌きに目を奪われ――そして煌きが壁に大きく開いた円の向こうに消えた瞬間響き渡った甲高い音に、一瞬、身を竦ませた。
 しかし甲高い余韻はすぐに薄れ、轟々と唸る風の音にあっという間にかき消される。
 少年ののどが、ごくり、と鳴った。
 円形の扉が開いた後の大きく開いた円の縁に手を掛け、身体を持ち上げ、扉の開いた跡に立つ。
 視線を下に向ければ、そこには陽光を照り返す鋼の煌き――目を射抜くような眩い輝きが確かに存在していた。
 ――どくん。
 ひときわ高鳴る鼓動。
「ヨルダ、こっち」
 イコは逸る気持ちを抑え、少女に向けて手を差し出した。しかし、なぜかヨルダは躊躇うようにその手を取ろうとしない。
「……ヨルダ?」
 手を取られないことに急に不安が湧き上がり、イコは身を屈めると縁のすぐ間近まで来ていたヨルダの顔を覗き込んだ。
 まっすぐ向けられたヨルダの透きとおったまなざしはどこか哀しみに揺れて見えて、けれどその理由がわからないイコの眉根が心もとなげに寄せられる。
 もう一度声を掛けようとイコが口を開きかけた時、ヨルダの白い繊手がようやく差し出されたままだったイコの手の平に添えられた。そしてヨルダはまるで大切なものを抱くように、両手でイコの手を包み込んだ。
 熱いくらいに感じる柔らかなその熱。その時になって、イコはようやく自分の手がずいぶんと冷たいことに気が付いた。しかしやはりその理由が思い至らず――
 ただ、自分の手の中の温かさと重みに安堵して、少女を引き上げるために力を籠めた。



「せーのっ」
 掛け声を掛けて扉の開いた跡から飛び降りる。
 飛び降りた先はこの建物に入ってきて最初の部屋――石畳の広間、二つ目の扉の前にあった舞台のように開けた空間だ。舞台のようなその場所が周囲より一層低い位置にあることは分かっていたので、三つ目の扉の開いた向こう――奇妙なオブジェが聳え立つ外の崖上――に何も考えず勢いのまま飛び降りてしまった時のような着地の失敗はせずにすんだ。
 下に降り立ったイコの視線が、引き寄せられるように一点で止まった。
 一歩、二歩。
 イコは足元を踏み締めながら、まるでそれ自身が発しているような鋼の輝きに、ゆっくりと近付く。
 横たえられた刀身が降り注ぐ陽を照り返し、眩い光を放っている。その光はやけに近寄りがたく、どこか恐ろしく感じられた。
 ――気のせい。
 そんな考えに頭を振る。
 イコは剣のすぐ傍らまで近付くと、腰を屈め、恐る恐る柄に手を伸ばした。手のひらに感じるひんやりとした冷たい感触に身が竦む。咄嗟に腕を引き寄せそうになるのを堪えると、冷たく、固い感触をぎゅっと握り締めた。
 そのまま持ち上げようとしたイコは、想像以上に腕に掛かる重みに息を呑んだ。それは片手で気軽に振えるような重さではなかった。
 これまでずっと振ってきた木の棒に目をやる。
 しばらく木の棒を見つめていたイコは、唇を噛み締めるとそれをそっと剣の隣に置いた。
 そして両手で鋼の柄を握り締め、掲げるようにして持ち上げた。
 ――すごく、おもい。
 剣を掲げた腕が細かく震えている。
 鎖に掴まって登って行く時よりも、落ちそうになったヨルダの手を掴んだ時よりも。
 イコの身の丈の半分くらいしかないはずの鋼は遥かに重く感じられ――
 ――ガシャンッ!
 突如鳴り響いた音に我に返ったイコは、周囲の様子に呆然と立ち竦んだ。
 目の前が――否、ふたりが立つ、ちょうど舞台のように空いていたその一帯を鉄柵が取り囲んでいたのだ。
 剣を手にしたまま、イコは鉄柵に駆け寄った。一体、この鉄柵はどこから来たものなのかと近付き、そして気付いた。
 最初、この建物に入ってきた入り口の前方を塞いでいた鉄柵、それが引き上げられ、イコたちを逃がすまいとするように周囲を塞いでいたのだった。
 頑丈な鉄柵は体当たりをしたところでびくともしない。鉄でできているそれは、木の棒はもとより、剣を叩きつけても破れはしなかった。
 ――どうしよう……とじこめられちゃったんだ。
 どんな仕掛けで鉄柵が引き上げられたのかはわからないが、閉じ込められた、という事実だけは明らかだ。
 イコとヨルダ、ふたりが下りてきた大きく開いた円の縁は、閉じ込められた舞台側からでは縁の上に触れることすらできない。勿論、円の縁より高く引き上げられた柵を乗り越えることができるはずもない。
「……あれ?」
 ふと、鉄柵を見上げていたイコはそれを吊るすロープに気が付いた。ロープを辿って視線を動かしていくと、それはやがて下って二つ目の扉の壁沿いに設置された滑車台へと至った。左右の滑車台はともに鉄柵の内側、イコたちと同じ空間内にある。
 ――このロープがつりあげてる?
 だとすれば、ロープという支えがなくなれば鉄柵は下りるだろうか、と考えつき――
 そして、手にしたままの剣に目を向けた。
「そうか……そうなんだ」
 今更なことに気付き、そのことが呟く言葉に力強さを与えてくれる。
「ヨルダ! もうちょっと待ってて!」
 舞台のような空間のちょうど中ほどで、心細げにたたずむ白い少女に声を掛け、元気付けるように降り注ぐ陽光より眩しい笑みを向けて見せる。
 勢い良く駆け出したイコは、体当たりする勢いで滑車に飛びついた。滑車によじ登ると、大きく振りかぶった剣を、ぴん、と張ったロープに向かって振り下ろす。
 手ごたえは想像していたよりずっと軽かった。
 ロープは容易く上下に分断され、分かたれたロープが張りつめていた力を失い、滑車をからからと回して下に落ちる。
 同じ要領でもう片方の滑車から伸びるロープも断ち切った。
 ふたつのロープの支えを失い――
 ――ガシャンッ!
 再び甲高い音を立てた鉄柵は、地面に吸い込まれるようにして一瞬の内に落ちた。
 辺りを囲っていた鉄柵が姿を消し、視界が開ける。
 イコは手元に視線を落とし、まさに文字通り、道を切り開いた剣をしばし見つめた。
 ずっと、この剣を使って襲い掛かってくる影たちを打ち払うことしか考えていなかったけれど、それだけではないのだ、と。剣は武器――傷つけ、倒す為だけの道具ではなく、こんな使い方もできるのだ、と。
 そのことにようやく思い至り――
「……あ」
 心なしか先程より軽く感じる重みに目を瞠る。いつの間にか、照り返される光はずっと柔らかく感じられ、そして扱いなれないはずの金属がほんの少し手に馴染んだ気がした。



 今や大きく壁に穿たれた巨大な円形の穴から向かって左側にある、石の扉に塞がれた入り口。左の壁沿いに伸びる階段を上り、滑車のロープを切った時と同じように、石の扉を吊るすロープを切ると、ガタン、と重い音が響き渡り塞がれていた入り口が開かれた。
 薄暗い入り口の向こうからは、間断なく流れる水の音が聞こえてくる。
 そしてふたりは水音の響く部屋へと入っていった。




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