21.東の反射鏡

 ふと、イコの脳裏を横切った景色は、風車の立っていた崖の上だった。
 円形の扉がなくなった後、壁に穿たれた巨大な円を描く縁の上に立ったイコの視界に映ったものはとっさに風車の景色を思い起こさせるほど、そこと良く似ていた。
 狭い崖の上は今ふたりがいる建物を除けば周囲を取り囲むのは青空だけだ。ひらけた崖の上は柔らかそうな緑の絨毯で覆われていたが、そのほぼ中央で緑の地面が抉られ浅く広い穴が掘られている。そこには水が張られる代わりに、八角形の鉄の台が置かれていた。掘られた穴の深さと同じくらいの高さを持つ鉄台の上には、不思議な形の物体があった。
 ――あれ、なんだろう……花?
 見慣れないその物体に首を傾げたイコが抱いた感想は、鉄で作られた巨大な花だった。
 鉄の台の上から伸びる短くて太い鉄の茎、イコたちに――建物に向かって鉄の骨組みでじょうごの形に作られた花が咲いている――ように見えないこともない。
「ヨルダ、あれ、なんだか知ってる?」
 眩い陽光の中、いっそう輝いて見える少女に手を差し伸べ、縁の上へ引き上げながら尋ねてみるが、相変わらず言葉は通じずヨルダは微かに首を傾けた。
 もっと近付いてみれば分かることもあるかもしれない、とイコは縁の上から緑の地面に向かって飛び降り――
「……っわ!」
「――!」
 少年と少女、ふたりの小さな悲鳴が重なった。
 外と中では思っていたより高さに差があったのだ。
 ――なんでちゃんとかくにんしてからおりなかったんだ、ぼく!
 長いように感じる一瞬の浮遊感の中で後悔するが、もう遅い。
 たいした高さではなかったが、動揺してしまい着地に失敗して尻餅をついてしまったイコの傍らに、ふわりとヨルダが降り立つ。
「――ごめん、ヨル――」
 柔らかな草の上だっため、腰を打ち付けたと言っても痛みは少ない。腰をさする動作もそこそこに立ち上がったイコがヨルダの方を振り向くと、すぐ間近に銀糸の煌きがあった。イコより高い位置にあるはずの綺麗な面が今はほとんど同じ高さにある。
 互いの瞳に映る互いの表情は、まったくと言って良いほど似通っていた。
 イコは自分の不注意からヨルダが怪我をしてしまわなかったか心配で。
 そしてヨルダは着地に失敗してしまったイコを心配して。
 そこにあったのは互いを気遣う色。
 ふたりの口許がほんの少し緩んで、浮かんだのは柔らかな微笑。



 近付いてみたけれど、結局、花のようなオブジェの正体はわからずじまいだった。鉄の茎の下の方には二枚の鉄板が伸び、そこにそれぞれ取っ手が取り付けられていたものの、押しても引いても不思議なオブジェが動くようなことはなかった。
 しかし外に降り立ったことで新たな発見があった。
 建物の外壁沿いに置かれたソファと、外壁に取り付けられた梯子だ。
 先ずイコは梯子を登ってからヨルダを呼んだ。先に何があるかわからないが、ヨルダの姿が見えないといやでも不安が湧き上がってくるし、何より空いた手がどうにも落ち着かない。
 ヨルダが梯子を登り終わるのを待って、手を繋いで入り口をくぐる。
 そこは先ほど通ってきたばかりの長く続く階段の通路がある部屋だった。もっとも、今はその階段の通路はずっと下の方にある。それどころか今まで見上げていた円形の扉を見下ろせる――目線を少し上げるだけで扉の上の縁が易々と視界に入る高さに立っていた。外壁の梯子は、この部屋に入ったばかりの時に見た中二階――階段の通路を一階部分とするなら、実際は三階部分に相当するのだろうが――の上に通じていた。
 真っ直ぐに伸びる足場の先には火の灯された燭台とレバーがあるだけであることを認めると、イコはようやく歩を進めた。
 通ってきた階段の通路とほぼ同じ距離を渡った先に設置されたレバーを動かすと、ガコン、と軽い音が響いた。
 三つ目の扉の時と同じく、二つ目の扉の下にある丸い鉄の蓋が開き、隠されていた燭台があらわになる。
 ――あそこに火をつければ。
 二つ目の扉が開く。
 どくん、と。
 不思議なほど高鳴る胸の鼓動。
「――いこう!」
 ヨルダの手を引いて通ってきた道を駆け戻る。
 ぎゅ、と繋いだ手が強く握り返されたように感じたのは、気のせいだっただろうか。



 棒の先に灯った光が輝きを失う。
 今まさに燭台に棒を差し入れようとした体勢のまま、イコの動きが止まった。
 一拍遅れて。
「あー! また消えたー!」
 イコの悔しげな叫びが響き渡った。驚いて駆け寄ろうとするヨルダに、なんでもない、と手を振って燭台の傍で待っているように動きで示す。
 あともう少しなんだけど、と呟きを零しながら、イコは走ってきた道のりを戻り始めた。
 二つ目の扉の燭台に火を灯す作業は、想像以上に困窮した。三つ目の扉の時と違い、燭台のすぐ傍に火種となるものがなかったためだ。
 そのため、三つ目の扉の燭台に火を灯す時に利用した篝火で棒に火をつけ、長い階段を下って梯子を登り二つ目の扉の下の燭台に火を灯す、という動作を何度も繰り返していたのだが、繰り返してしまうことからもわかるように、燭台に火を灯す前に棒の火が消えてしまう。少しでも時間の節約になるよう、梯子の掛かっている壁側の火を使い、棒に火を付ける時も棒を伸ばして届くぎりぎりの位置まで階段を下りているのだが、どうにも厳しい。
「うーん……やっぱり、さっきいきおいあまってはしごをとおりすぎちゃったから……階段はやっぱりふつうに走ったほうが速い気がする……」
 などと、これまでの自分の動きを思い返して、理想的な道筋を思い描く。
 梯子を登る途中で消えていた火が、梯子を登り終えてから、そしてあと一息で燭台に届く、という距離まで近付けている。
 次こそは。
 何度目かの決意を胸にイコは燭台の前――よりも数段下の段に立った。
 精一杯腕を伸ばし、少しずつ歩を進めて火に近付く。
 木の棒に火が灯るや否や身を翻し、階段を一気に駆け下りた。梯子の寸前で減速し、動きは止めず梯子を登り始める。その時には棒の先の明かりはそろそろ心許なくなっていた。
 梯子を登り終えると、振り返る勢いで右を向いて足を蹴り出す。扉の下、両側に取り付けられた燭台の内、より近い方、向かって左側の燭台に向けて思い切り腕を差し出した。
 今にも光が消えそうな木の棒の先端が燭台の中に突き込まれ――
 ――ポウ。
 抜き出した木の棒の先端からは輝きが失せ、焦げた後しか残っていなかったが、新たに灯された光が、今度こそ間に合ったことを教えてくれた。
「……やったあ!」
 ようやく報われた何度目かの苦労に、煌々と灯る明かりに負けずイコの顔が輝く。
 ひとつ明かりが点けば、残りのひとつは簡単だった。
 片方の燭台の炎を火種にすれば、もうひとつの燭台はすぐ間近だ。
 二つ目の燭台にも火を灯し――
 そして、再び部屋全体が震えるような振動が鳴り響いた。
 二つ目の扉が開き。
 ひとつの煌きが落ちる。
 ――カシャン。
 開いた扉の向こうで鳴り響く甲高い音が、やけに大きく聞こえた。




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