20.東の偶像階段

 決して狭くはないはずのその部屋に入った瞬間感じた、息苦しくなるような閉塞感。イコの脳裏にふと思い浮かんだものは、せき止められた水路の水だった。あるべき流れを止められて、少しずつ、静かに澱んでいくような――この場所は、それに似ているような気がした。
 轟々と唸る風の音が途絶えている。
 静寂な闇が満ちる部屋で、火のはぜる音と、イコとヨルダ、ふたりの足音だけが響き渡る。
 それも当然のことだと、周囲を見渡していたイコはすぐに納得した。
 頭上を振り仰いだ先に青空の見えていた先ほどの広間の部屋と違い、この部屋には空から降り注ぐ陽を遮る天井があった。遠くに見える天井と、背後――入ってきた入り口側――の壁の間に僅かに空いた隙間から微かに漏れ出る白光以外、部屋の外から差し込む明かりは見当たらず、部屋を照らす主な光源は点々と置かれた燭台に灯された炎だった。
 入り口近辺は狭く、数歩も進めば前方は壁によって塞がれてしまう。ただ、前方の壁は天井まで続かず、途中で中二階のようになっているようだった。そこにも燭台が立てられているのだろう、入り口付近から見える中二階の周辺が赤味を帯びた光に照らされている。
 入ってきた左側は壁になっていたが、右側にはまだ空間が広がっていた。
 もっとも、広がっていると言っても入り口周辺の足場はすぐに手すりに遮られてしまう。手すりから先は、何もない虚空――否、手すりが途切れた部分には、下りるための長い梯子が掛けられているから、下りることができるのだろう。
 梯子を下りてしまう前に、イコは十分すぎるほど周囲に目を配った。
 明かりの足りていない部屋の中では、そこかしこにより濃い影が留まり、ゆらめく明かりに踊らされる影はまるで蠢いているように見えてしまう。
 深い影に沈んだ一角を半ば睨みつけるようにして、イコはきっ、と顔を上げた。



 吹きさらしの天井の部屋と同じく、入り口側の壁には巨大な円盤状の扉と、扉の外側下部に取り付けられた二つの鉄球があった。位置関係から考えて、この扉は剣の挟まっていた――建物に入ってきた入り口側の円形の扉を一つめとするならば二つめの――扉の裏側なのだろう、と思い至る。しかし扉はよほどの厚みがあるのか、見上げてみても挟まれているはずの剣の先端すら見えない。
 二つめ円形の扉で、挟まっていた剣が見える側の扉は、石床から階段を何段か下った先に設けられた広場――あるいは舞台のような場所――の背後にあった。そのため、思い切り跳んでも扉を囲う縁に指先を掛けることすらできなかったが、剣が見える側を表側とするなら裏側のこちらは下ることがない分、最下部の縁が近い。手を伸ばせば簡単に届き、縁の上に上ることもできる。
 イコは縁の上に立ち上がったまま、背後を振り返った。部屋はその視線の先、ずっと奥まで続いている。ただし部屋の奥に行くには、手すりを越え、長い梯子を下りて行かなければいけない。
 部屋の最奥の壁には、今のイコと同じ目線の位置にやはり同じような円形の扉があった。建物の入り口側の扉を一つめ、剣が挟まり、今入ってきた部屋の入り口側にある扉を二つめと数えるとすると、部屋の最奥にある三つめの扉は、一度梯子で下に降りなければならないことからもわかるように、石床から円盤状の扉までの距離はこれまで以上に遠い。ただ、不自然に扉前方の壁が出っ張っていることが妙に目に付いた。そしてその扉前方の足場には、火の灯された背の高い燭台が二台とレバーが一台設けられていた。
 ――あのレバーをうごかすと、とびらがひらくのかな?
 そう思ったのが、扉前方の足場に登る為の梯子は見当たらない。三つめの扉近くは、勢い良く燃える炎に照らされているため、まさか梯子を見落としているとは考えにくい。
 それでも、他に登る手段を見落としているのかもしれない、と考えたイコは二つめの扉の縁から降り、一度三つめの扉の近くまで行ってみよう、と下へ続く梯子に手を掛けた。
「ヨルダ」
 薄闇の中、白い姿を浮かび上がらせ、どこかぼんやりとした様子で辺りを見遣っていた少女に一声呼びかける。
 イコの呼びかけに視線を向けたヨルダへ手招きをしてから梯子を下り始める。
 そうして、梯子を下りたすぐ先には大きな円柱があった。
「……なんだろう、これ」
 円盤状の扉の縁の上で周囲を見た時は、足元に近すぎて見落としてしまったらしい。
 高さはそれほどでもなく、跳べば頂に簡単に手が届く。ただ、その柱とするには短すぎる円柱はとても太く、大人が数人がかりで手を伸ばして、ようやく円柱を取り囲めるくらいの大きさだった。もちろん、円柱の向かいを窺い知ることなどできはしない。
 しかしその円柱でもっとも目を惹いたのは、その頂から、ぼんやりとした輝きが放たれていることだった。
 どこかで見たような光だな、と感じた瞬間、イコは思い出していた。
 ――そうか、ソファの光とそっくりなんだ。
 身体も心さえも包み込んでくれるような優しい光。それと同じ光が円柱から輝きだし、鼓動を打つようにゆっくりと明滅している。
 何かあるのだろうかと、イコは跳び上がって円柱の縁に手を掛けると、一気に身体を持ち上げた。
 光を放っているのは円柱の上に複雑に描かれた文様のようなものだった。イコはしばらく円柱の上に立ってじっとしていたが、変化が訪れる様子は一向にない。
 見当違いだったかと円柱の上から飛び降りようとしたイコは、ようやく梯子を下りてきたヨルダと視線が合った。
「……あ、そうか」
 ソファもひとりでは反応しない――ひとりで座っても何の変化もない――ことを思い出し、円柱の傍近くに近付いてきたヨルダを呼ぶ。身を乗り出して手を差し出せばヨルダも白い腕をイコに向けて伸ばしてくる。
 ヨルダが近付いた一瞬、明滅がより強くなったように感じたのは、あるいは単なる気のせいだったのかもしれなかったが。
 ヨルダの手を掴み、ぐっと力を込めて華奢なヨルダを引き上げ、円柱の上に、イコとヨルダが揃ったその瞬間――
 轟、と。
 部屋が震えた。
 重いものが擦れ合うような鈍い音が鳴り響く。
 そして、イコたちの目線が徐々に下がり始めた。
「な、なに!?」
 突然のことに、イコはヨルダを庇うように背後に引き寄せ木の棒を構えた。
 目線が下がり始めたのは、ふたりが立つ円柱が床へと沈んでいったためだった。
 反対に、部屋の最奥までの道のりがせり上がっていった。それは段差を付けながら徐々に高くなっていき、円形の扉まで続く長い階段を作り上げていく。
 大掛かりな城の仕掛けを目の当たりにして呆然と立ち竦んでいたイコの目の前で、三つめの扉へ続く階段が完成した時には、ふたりが立つ円柱も動きを止めていた。
 ――すごい。
 そう、素直に簡単の吐息が漏れる。
 それから、はっと我に返った。
 階段を駆け上がれば、あのレバーの所まで行ける。
 けれど、現れたのは階段だけではなかった。
 止まったものは沈み行く円柱だけではなかった。
 駆け出そうとした足を止めたイコたちの周囲で。時が止まってしまったような、音の消えた世界の中で。
 両眼に青白い輝きを宿した漆黒の影たちが蠢いていた。



 ヨルダの手を引き、部屋の角に駆け寄る。
 上にも影穴があるのか、黒い翼を羽ばたかせて影が頭上からやってくる。それと同時に、近くの影穴から出てきた屈強な影も零れる漆黒の足跡を残しながらイコへ――その背後に庇われたヨルダへ迫る。
 ただ、ヨルダに触れさせたくない――ヨルダと引き離されたくない一心で、イコは木の棒を振り続けた。
 漆黒が消え、世界に音が取り戻されるまで。



 火のはぜる音を聞きながら、イコとヨルダは長い階段を一段ずつゆっくり上っていった。
 レバーの前に立ち、躊躇なくレバーを引く。
 しかしイコの予想に反して聞こえてきたのは、ガコン、という、思っていたよりずっと軽い音だった。
 ぎょっとして前後の扉を交互に見遣るが、何度見てもどちらの扉も閉ざされたままだ。
「え? どうして……でもたしかになにか音が」
 言いかけて、気付いた。
 巨大な円形の扉は変わらず閉ざされたままだったが、確かに変化しているものがあった。
「これ……燭台?」
 ずっと、鉄球だと思っていた物。
 レバーの背後、三つめの扉の下部にある鉄球が、壁にはめ込まれた丸い燭台になっていたのだ。鉄球と思っていたものは、燭台を覆う蓋だったらしい。それがレバーによって開いた、ということなのだろう。
 丸い燭台には火が灯されていなかった。
 ――せっかく、火があるんだし。
 ただの燭台にしては仕掛けが大仰過ぎる、とか、火を灯すことで別の仕掛けが作動するのでは、とか深く考えての行動ではなかった。
 イコは木の棒を差し伸ばして近くの燭台から火をもらい、丸い燭台に点火していった。
 二つの燭台に煌々とした明かりが灯された、まさにその瞬間――
 先ほど、イコが思い描いていた重低音が部屋中に轟いた。
 目を瞠るイコの目前で、唸りを上げる三つめの扉の真ん中に、白く輝く縦線が刻まれる。線は少しずつ広がり、やがて白光を放つ巨大な円となった。
 灯された炎の光が霞むほど、部屋中が明るく照らされる。
 白い輝きが外から差し込む陽光なのだとイコが気付いたのは、部屋を閉ざしていた扉が消え失せ、ぽっかりと空いた巨大な円の向こうに広がる緑と、青と、そして奇妙なオブジェを目にした時だった。




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