19.東の闘技場

 ――ガシャンッ。
 それはヨルダを追ってイコが建物の中に足を踏み入れた、まさにその瞬間の出来事だった。
 突如、背後から鳴り響いたのは重いものが落とされたような音。
 甲高い音が響くのとほぼ同時に、周囲を取り巻く薄闇がいっそうその深さを増す。
 とっさに振り返った視線の先――入ってきたばかりの入り口は固く閉ざされ、濃い影が落とされていた。
「……え?」
 即座に状況を把握することができず、イコは呆然とした眼差しで閉ざされてしまった入り口を見つめた。しかし、これまでにも仕掛けで開閉する扉があったことを思い出し、今度もその類なのだろうと考え、改めて入ってきた部屋の様子を窺い始めた。
 その空間の片隅、入ってきた入り口の向かって左側の隅に、今イコが手にしているのと同じ松明の棒が数本無造作に置かれている。閉ざされた入り口のすぐ手前では、人ひとり分くらいの大きさで石床がせり上がっていた。
 ――きっと、あれに乗ると入り口がひらくんだ。
 そう納得して、再び視線を彷徨わせる。
 入り口の周囲は狭く、薄暗かった。しかしその暗さは、例えばまるで霊廟を思わせる暗い部屋の中に入った時のような陽の差さない建物の中とは違い、強い陽射しを遮る木陰に入った時のような、翳ることはあっても闇が覆い隠すことのない、明るさの同居している暗さだった。現に場所によってはまばゆい光に照らされている所もある。何より建物の中に入ってきたはずなのに、まるで所々で灯された明かり――火のはぜる音を掻き消すように、轟々と風の唸る声が絶え間なく聞こえてくる。
 風の音に誘われて、あるいは差し込む光の光源を辿るように、頭上を見上げた。そこには天井がなく、視界いっぱいに青空が広がっている。建物の外観からは気付かなかったが、そこは吹き抜けになっていた。
「――ん?」
 その時、空を見上げる視界の隅で何かがきらりと光った。気になったイコは視線を光の正体に向け――
 ――どくん。
 それを目にした瞬間、なぜか鼓動が跳ね上がった。
 それ自身によるものではなく、降りそそぐ陽射しをよりいっそう強く照り返すことで生まれるその輝き。
 それは金属の――鍛え抜かれた鋼の輝きだった。
 一振りの剣が前方の壁に突き刺さっていたのだった。
 ふたりが入ってきた入り口の周囲は背後――入ってきた入り口とその両側面が壁になっていたが、前方は鉄柵に塞がれていた。壁も鉄柵もそれほど高いものではなかったが、飛び越えられるほど低くもない。ただ、鉄柵から向かって右側の壁には壁の上に登るための梯子が掛けられていたし、鉄柵越しからでもそれなりに周囲を窺うことはできる。
 剣が刺さっているのは、その鉄柵のさらに向こうにそびえる円盤状にくり抜かれた壁だった。
 足元の石床は鉄柵を越えるとなだらかな上り坂になっていた。ほんの数歩程度の距離で坂は終わり、その先には横長の楕円を切り取ったような空間が空いていた。鉄柵越しにその場所の様子を窺うと、数段の上り階段になっている段差が楕円に空いた空間を取り囲んでいる。
 まるで何かの舞台じみた空間の背後にそびえる壁、その中央が巨大な円盤を押し込まれたようになってへこんでおり、円盤のちょうど真ん中に剣が突き刺さっていた。
 ――ちがう。
 そこまで見て、イコは違和感に気付いた。
 ――かべじゃ……ない?
 よくよく目を凝らしてみると、円盤の中央に縦の線が走っている。剣があるのはちょうどその線の中だった。
「もしかして……かべじゃなくて、とびら、なのかな?」
 剣は突き刺さっているのではなく、両側から挟みこまれていたのだった。
 決して小さくはないはずの剣がとても小さく見えるほどその円盤状の扉は大きかった。それだけ巨大な円の中央だ。もちろん、剣が挟まっている高さは手を伸ばして届くものではない。そんな場所にある剣がもし壁に刺さったものだったのなら、引き抜くことは不可能だっただろう。しかし、閉ざされた扉に挟まれただけなのならば。
 ――とびらがひらけば、剣はおちてくる……?
 そう考えて――
 ――不意に。
 身体の奥底から湧き上がってくるような震えに、少年は思わず胸元を固く握り締めた。
 ――欲しい、と切望する想いと。
 ――いらない、と恐れ拒絶する気持ちと。
 陽射しをより強く照り返す、眩いばかりのその光。
 魅入られたように目を離せないでいる少年の肩に、温かく柔らかなものが触れた。
「……ヨルダ?」
 そこにあったのはけっして眩しくはない柔らかな白光だった。ともすれば今にも溶けて消えてしまいそうな、けれど暗闇の中だけではなく降り注ぐ光の下でさえ、なおいっそう輝く白い光を纏った少女の表情が僅かに緩んだ気がした。
「ヨルダ?」
 なぜか、その表情が泣き出しそうにも見えて、イコは心配そうに少女を見上げた。
 俯いたヨルダの顔を銀糸が覆い隠す。
 再び白い美貌が上げられた時には、穏やかな表情が戻っていた。
 肩に置かれていた柔らかな繊手が肩から離れ、イコの手を包み込む。
 ――行きましょう。
 そう、言われたような気がした。
 イコは頷きを返し、梯子に手を掛けた。



 カンカン、と軽快な音を響かせてイコは梯子を登っていった。梯子を登った先は石畳の広間が広がっていた。
 梯子を登ったばかりのイコから見て前方、右端の壁際に不思議なソファが置かれている。左側、剣の挟まった円盤の扉側は、先ほど鉄柵越しに見た、舞台のような空間を取り囲む緩い段差の階段が見えた。
「ヨルダ」
 ある程度上の様子を窺ってから、下で待つヨルダに声を掛けた。
 ヨルダは――裸足だということもあるだろうけれど――まったくと言っていいほど音を立てない。
 音がないからヨルダが梯子を登ってくる気配を感じられない。
 呼びかけてからたいして時間が経っていないことは十分わかっていたが、それでも少女の姿が中々見えないことに対して次第に少年の眉間に皺が刻まれていった。
 もう一度声を掛けようか、それとも梯子の傍まで近寄ってみようか、イコが逡巡していると、ようやく石床の縁からきらきらと光を弾く――むしろそれ自身が白光を放つ艶やかな銀糸の髪が覗いた。
 一段一段、ゆっくり踏みしめて登ってくるヨルダの姿にほっと息を吐いたイコだったが、次の瞬間、その表情が一気に険しいものへと変わった。
 梯子を登りきったヨルダが石畳の上に足を乗せるのとほぼ同時に、駆け寄ったイコがヨルダの華奢な腕を掴む。
 ――唸る風の音も、火のはぜる音も聞こえなかった。
 絡み付き重くのしかかってくるような重圧を振り払うように、イコは木の棒を横に凪ぐ。すぐ背後まで迫っていた巨影に叩きつけた一撃をイコは渾身の力で振り抜いた。
 間近にあった漆黒が数歩あとずさる。
 入れ替わるように別の漆黒が進み出る。
 少年とは比べ物にならないほど立派な体躯を揺らめかせ、漆黒の影がふたりに迫っていた。



 どれだけ木の棒を振るったか覚えていない。
 倒しても倒しても起き上がってくる影たちに、数えるという行為は徐々に意味を失っていった。
 ただ、漆黒の揺らめきがいつの間にか見えなくなり、轟々と吹きすさぶ風の音と、ぱちぱちとはぜる火の音が聞こえてきて、襲い掛かってくる――ヨルダを攫おうとするものがいなくなったことをようやく知った。
 何度かヨルダを攫われそうになったが、その度に、闇のたゆたう影穴に引きずり込まれてしまう前に助けることはできていた。
 ――でも。
 本当は、一度だってヨルダに影たちを近付けさせたくはない。
 ヨルダに悲鳴を上げさせることはしたくない。
 ――ヨルダを守りきれる、強さが欲しい。
 ぼんやりと向けられたまなざしは遥か頭上の輝きを見ていた。



 一息ついてから再び周囲を探索し始めた。
 なんといっても一番目を引くのは、前後で向かい合う巨大な円形の扉だった。
 円形の扉は剣を挟みこんだものだけではなく、その向かい、入り口側の壁にも存在していた。
 円盤状の扉部分は壁にはめ込まれたようにへこんでおり、その周囲を囲む縁はそれだけでイコの背丈の半分はありそうな幅を持っていた。この恐ろしく巨大な扉は、驚いたことにその規模にもかかわらず完全な――少なくともイコの目にはそう映っていた――真円を描いている。
 入り口側の円形の扉は、石畳の床から扉の下部の縁に上ることができるが、剣の挟まった方の扉は思い切り跳んでも一番下の縁に指先を触れることすら叶わない。剣の挟まった円形の扉があるのは石畳の床から階段を数段下った先にある舞台のような空間の背後である。向かい合った円形の扉は位置する高さもほぼ同じだったようで、石畳から下りた分だけ地面から扉を囲う縁までの距離が空いてしまったのだった。
「……あれ?」
 半ば見惚れて、何度も向かい合った円形の扉に目をやっていたイコは、扉を囲む縁の外側の壁で、扉より一段低い位置の壁に左右一つずつ、一抱えできそうな大きさの鉄球がはめ込まれていることに気付いた。鉄球は向かい合う円形の扉両方の壁にあるので、計四つの鉄球が石壁にはめ込まれていることになる。両側とも扉と鉄球の位置関係が変わらないため、階段を下りた先、剣の挟まった円形の扉の傍近くにはめ込まれた鉄球は、当然のことながらイコの頭上より高い場所にある。しかし鉄球の下には、近くまで行けるようわざわざこしらえとしか考えられない階段の足場が用意されていた。
 気を惹かれて近付いて見るが、触れてみても、棒で叩いてみても何の反応もない。
 ――これ、なんだろう?
 妙に気になり、懲りずに何度も叩いたり、飛びついてみたりしたがやはり何も起こらない。
 仕方なく他に何か変わったものがないか探し始める。
 階段を下りる分、周囲の石畳より幾分低くなる舞台状の空き地と周囲の石畳との境目には、円形の扉側の壁沿いに左右で一つずつ滑車台が設けられていた。壁の上方にも滑車が据え付けられており、よほど大掛かりなものを引き上げるためのものなのだろうと思われた。
 また、剣を挟んだ円形の扉を前方とすると、広間の左右の壁沿いにはそれぞれ階段が伸びていた。ただし、階段は前方奥の壁に突き当たるとそこで行き止まりとなっている。
 その二ヶ所の階段の内、向かって左側の階段を登った先の足場のすぐ上を一本のロープが走っていた。ロープを追って視線を動かしたイコは、そこでようやく前方の扉がある壁の両脇、階段のすぐ傍らに入り口があることに気が付いた。
 あいにく左の入り口はロープに吊るし上げられた石の扉によって塞がれていが、ロープのない右側の階段傍にある入り口は、何にも塞がれることなく開いている。
 左側の階段を上り、試しに石の扉を吊るしたロープを棒で叩いてみたが、その程度の衝撃では石の扉がロープから外れるどころか、その振動によって石の扉が動くことすらなかった。
 ――となると、開いている道は一ヶ所だけだった。
「よし、いこう!」
 進む方向さえわかれば後は早い。
 イコはヨルダの手を引いて唯一開いている右側の扉へと足を向ける。
 ――きらり、と。
 目の端をちらつく眩しいばかり輝きは、いつまでも翳ることはなかった。




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