16.木漏れ日

 そこは、高く伸びる城壁と外壁に周りを囲まれていた。
 再び城内へ足を踏み入れたイコは、押し潰されそうな圧迫感に思わず後退りかけた。
 四方に高くそびえる石壁はどうしようもなく閉塞感を与えてくる。つい先ほどまで居た場所が場所だけに――よく言えば開放的、だった――、息苦しささえ感じてしまう。
 ――すぐ、慣れるよね。
 現に、先刻まで――風車のある崖の上に出るまで――は、ここまでひどく圧迫感を感じることはなかったのだから。
 自らを鼓舞するようにひとつ頷いて、イコは周囲を見渡した。
 ふたりが入ってきた所以外、出入り口は見当たらない。一箇所、頑丈な鉄格子の下ろされた、通路と思しき場所があったが、肝心の鉄格子を引き上げるための仕掛けはイコの目に映る範囲には見当たらなかった。
 ただひとつ道と呼べそうなものは、上から吊るされた鎖だけだ。
 頭上を見上げたイコの眉間に皺が寄る。
 鎖を登りきれば城壁の上だ。当然のことだが、ふたりが今立っている地面からはかなりの距離がある。一度上に登ったら容易く飛び降りることなどできない高さ――それは、離れている間にヨルダに何かあってもすぐに駆けつけることができない、ということになる。
 しかし、躊躇は一瞬だけだった。
「ヨルダ、ちょっと行って来るね!」
 繋いでいた手を勢いよく離し、笑顔を見せて、イコは鎖を登り始めた。
 鎖登りにもすっかり慣れたイコは、鎖をほとんど揺らすことなくするすると登っていく。登る振動で揺れた鎖が奏でる金属音も微かなものだ。
 あっという間に城壁の上に辿り着く。イコは鎖の吊るされている張り出した台に手を掛け、一気に身体を持ち上げた。それから周囲に目を遣ろうとして――
 ――鋭く、息を呑む。
 イコは振り返る暇さえ惜しんで、登りきったばかりの鎖に手を掛け、滑り落ちる勢いで下り始めた。
 耳に届くのは、今や不吉な羽ばたきの音だけ。
 見据える先には、白い少女と、日を遮って生まれた影よりなお暗い――漆黒の闇を思わせる蠢く影たちと地面に穿たれた黒い淵。
 飛び降りる勢いで石畳の上に降り立ったイコは、今にもヨルダを覆い尽くそうとする影たちに向かって駆け出した。



 最後の一体が倒れ、煙となって消えて行く。闇を湛えた黒い淵も蒸発するように消えて行った。
 影たちの数が多くなかったこともあり、それほど苦戦することもなくヨルダを守れたことにイコは安堵の息を吐いた。
 怪我をしていないだろうか、とヨルダを振り返ったイコは、自分を覗き込むヨルダの瞳と真正面からかち合った。
 互いの瞳に映る互いの顔は、相手を気遣う色を見せ――思わず吹き出しそうになったけれど、
「――だいじょうぶ」
 口をついて出た言葉は何故か頼りないほど微かな声音で、イコは慌ててもう一度声に出した。
「ぼくは、だいじょうぶ、だよ」
 先ほどより大きな声で言えたけれど、どうしてか、一言一言が喉に詰まる。
 ヨルダに労わる視線で見詰められていると、何故か上手く喋れない。目元が熱くなり始める。
 木の棒を強く握り締めた手が微かに震えていることに、少年は気付いていなかった。



 再び鎖を登り城壁の上へ立つ。
 イコは背後――下を見下ろし、白い光を目に留めてから、改めて周囲を見渡した。
 鎖を登ったすぐ先には道を閉ざす石像があった。その足場を降りた奥の方は、小さな中庭、なのだろうか。降りてきた一部分を除き、その場所も四方を城壁に囲まれていたが、地面を石畳ではなく柔らかな草が覆い、緑の葉を茂らせた木が数本立っていた。ただ異質なのは、中庭の中央に等間隔で並べられた四角い穴だ。穴が並んでいる部分だけ、地面が僅かに盛り上がっていた。その場所は避けて、柔らかな地面を踏み締めて木の下まで行くと、きらきらと木漏れ日が零れ落ちてくる。
 奥の壁を正面とすると、左手側の城壁には窓が設けられていた。そこを通れば左側の城壁の向こう側へ行けるだろう。窓はやや高い位置にあったが、跳んで縁に掴まれば上ることができそうだった。しかし窓には取っ手のついた木箱が窓の縁ぎりぎりに置かれており、窓の横幅はちょうど木箱と同じくらいということもあって、手を差し込む隙間すらない。高さ的には窓の方が余裕があり、木箱と窓の上枠の間は開いていたが、イコが思い切り跳んでも木箱の側面を叩くことがやっとだった。もちろん、いくらイコは大人と比べても強い力があるとは言え、側面を叩いたくらいで動くほど木箱は軽くない。
 最奥の壁際まで続いていると思われた地面は、僅かな距離を残して、奥の壁との間に空間を空けていた。さらさらと水の流れる音も聞こえたので顔を下に向けると、浅く湛えられた水が、降り注ぐ日の光を反射して煌めいている。
 ――水路なのかな?
 水は際限なく流れ続けている。ひょっとして、と中央に並んだ穴のところまで行くと、穴には格子が填められており、日の光が遮られているため暗く塗りつぶされている穴の下からは確かに水の流れる音が聞こえてくる。
 ――やっぱり、この下が水路になってるんだ。
 そう確信を得て――だからといって、ヨルダをここまで連れてくることができそうな仕掛けが見つかったわけでもなく、未だ見つからない何かを探して首を巡らしながらイコは中庭を散策した。
 ――どこか上に登れるものとか……。
 上を見上げながら無作為に一歩を踏み出し――しかし、そこに踏み締めるべき地面がなかった。
 イコが不審に思う間もなく視界が下がり、咄嗟に伸ばした手が緑の草に覆われた縁を掴むが、落下する身体の重みと、落下を止めた時の腕にかかる衝撃に耐え切れず、思わず掴んだ手を離してしまった。
 眩いほどだった視界が一転して真っ黒に染められる。次の瞬間、イコは硬い床に腰を強かに打ち付けた。イコは慌てて立ち上がり、数度目を瞬かせて闇に目を慣らそうとした。ザーザーと水の流れる音がやけに反響して聞こえる。
 真っ暗だと思ったのは外の明るさとの対比からだったようで、案外明るいその場所にすぐに目が慣れる。
「……ここは……」
 ぽつりと呟いた言葉が、思いの外大きく反響して聞こえ、イコは思わず口を閉ざした。
 そこはまるでトンネルの中だった。足元は硬い石床だったが、絶えることなく響く水音に格子越しに音を聞いた、中庭下の水路なのだろうかと考え付いた。それにしては、どうして音だけで水が見当たらないのだろうかと首を捻る。
 天窓のように頭上に開いた四角い穴から光が差し込み、物を見るのに不自由しないくらいには内部は明るい――そう思いながら上を見上げていたイコは、その時になってようやく自分の身に起こった事を察して顔を顰めた。
 何のことはない。中庭にあった穴の中に、格子の填められていないものがあったのだ。ぽっかり開いた穴に足を踏み入れれば、穴の中に落ちるのは道理だろう。
「うわあ……」
 情けなさに頭を抱え込みそうになったが、すぐにそれどころではないと気を持ち直す。
 頭上の穴は、跳んでも届かない高さにあったからだ。この水路から出るためには、上以外の道を見つけなければいけない。
「あれ……ヨルダ!」
 何気なく振り返ったイコは、光の中にたたずむ少女の姿を見つけ、駆け寄った。しかし、あと少しで水路の外に出るという所で、鉄格子に阻まれしまった。
 ――そうか、ここはあの時見た通路だったんだ。
 何となく構造を把握したイコに、ひらめくものがあった。
 ひらめきを実行する為に、まずはこの鉄格子が開かないものかと力いっぱい引き上げてみるが動く気配すらない。木の棒で叩いたところで、鉄でできたものが壊れるはずもない。
 不安そうに見詰めてくるヨルダに、「だいじょうぶだよ」と笑顔を見せて、イコは踵を返すと大きな足音を響かせ、同じように光に霞む反対側の出口に向かって進んだ。
 水路――通路の奥の方は、石床の地面が途中で水に満たされた正真正銘の水路に変わっていた。左右の横幅も水上の通路よりずっと広がっている。水深は思ったよりも深く膝上まで水に浸るはめになってしまったが、イコは気にすることなく水を掻き分け更に進んだ。水に入る前から反対側の出口にも鉄格子が下りていることが見て取れていたが、せめてこちら側の鉄格子は動かせないだろうかと格子を掴み、前後左右に動かしてみる。しかしやはり、どれだけ力を入れても下ろされた鉄格子が動くことはなく、落胆のため息とともに振り返り――イコは目を瞠った。
 左右の壁際に水面より上に足場が設けられ、足場には大きなパネルが填められていたのだ。
 見覚えのあるパネルを目にしたイコは恐る恐る左側の足場の上に乗り上がり、パネルの上に立ってみた。暗い部屋の手前――墓地のあった所のパネルと同様、イコを乗せたパネルがゆっくりと沈み出す。それと同時にガシャン、と勢い良く何かが持ち上がる金属音が聞こえた。しかし、イコが正面に見据える奥の鉄格子に変化はない。
 ――もしかして……。
 反対側の鉄格子を確認しようと身を乗り出すが、背後の壁が邪魔で確認できない。一度パネルから上がれば良い事ではあるが、墓地にあったものと同じ仕掛けだとすれば、今現在鉄格子が上がっていてもパネルから下りた瞬間、鉄格子も下がってしまうだろう。
 ほんの少し考え込み、イコは口許に手を当てると大きな声でヨルダを呼んだ。
「おぉーいっ!!」
 一拍おいて、小さな足音が響いた。徐々に近付く足音はやがて、ザブン、という水音に変わり、もう一度呼びかけようか、悩んでいたイコの目の前に白い輝きが映った。
「ヨルダ!」
 喜び勇んで、パネルから足場に上がってヨルダを出迎える。すると、やはり予想通り、甲高い音を立てて何かが下りた音が大きく響いた。
 ヨルダに手を貸して足場の上に引き上げながら、ヨルダが来た側の出口を覗き込むと、そこには先ほどと変わらぬ様子で鉄格子が下りていた。
「ヨルダ、ちょっとここに立ってて?」
 ヨルダをパネルの上に誘導し、立たせる。再び沈み始めるパネルに呼応するように、先ほどまでヨルダが立っていた、鎖の吊るされていた場所に通じる鉄格子が音を立てて引き上げられた。
 ――これなら。
 先ほどひらめいた考えが現実味を帯びてきた。
「ヨルダ、すぐに呼ぶから、少し待ってて!」
 イコにつられてか、パネルから上がって一緒に覗き込もうとするヨルダを身振りで押さえると、イコは大急ぎで水路を駆け抜けた。



 鉄格子の下をくぐり抜け、鎖を登り、木漏れ日が零れ落ちる中庭に立つ。
 さっき落ちた穴はどれだったろうかと、地面に並んだ四角い穴をひとつずつ確認する。すぐに格子の填められていない穴を見つけ、思い切り身体を乗り出してヨルダを呼んだ。
 下の水路からではいくら跳んでも開いた穴の縁に触れる事すら敵わない。しかし、上から誰かが手を伸ばせば、伸ばされた手に掴まることはできるかもしれない、そう考えたのだ。そしてそれができれば、ヨルダをここ――上に連れてくることができる。
 イコが身を乗り出し手を伸ばす先で、水音を立てて浮かび上がるような白が現れる。上にいるイコに気付けないのか、不思議そうに辺りを見渡すヨルダにもう一度呼びかけた。
「ヨルダ、こっちだよ!」
 上から降る声に導かれて顔を上げたヨルダの瞳がイコの姿を捉えた。目一杯伸ばし、差し出された少年の手に向かって、飛びつくようにしてヨルダが手を伸ばす。
 あやまたず少女の手を掴んだイコは、そのまま下に引き摺り下ろされそうになるのを必死に堪えて、腕を持ち上げる。ただでさえ無理な体勢から腕を伸ばしていたため、普通にヨルダを引き上げるよりよほど腕や肩に負担が掛かっていた。
 それでも、少しでも身を起こし体勢を整えると、両手でヨルダの腕を掴んで、無事、上に引き上げることができた。
「――ヨルダ、だいじょうぶ?」
 引き上げた後、隣に腰掛ける少女に恐る恐る問いかける。
 かなり強い力で掴んだため、ヨルダの華奢な白い腕にはうっすらと赤味が差していた。躊躇いがちにイコがヨルダの腕をさすると、ヨルダも空いた手でイコの肩を優しくさすった。ヨルダのその行動に、イコはきょとんとして間近にあるヨルダの顔まじまじと見詰める。それから、くすり、と小さく笑みを零した。
「――うん、ありがとう、ヨルダ」
 言われている言葉はわからないだろうに、ヨルダも優しい微笑みを返してくれた。



 降りそそぐ陽の光の下、柔らかい草の絨毯の上でひと休みした後、鎖が吊り下げられた足場へ向かう。
 ヨルダから放たれる、太陽の光よりなお鮮烈な閃光によって石像が道を開けた。
 何を言うこともなく、自然と伸ばされた互いの手が強く握られる。
 そしてふたりは新たな道へと歩を進めた。




ICO room