15.風車

 暗い部屋を抜け出た先で、再び降りそそぐ陽光の眩しさに目が眩んだ。同時に、足元の触感がこれまで続いていた石畳の固さから、草の柔らかさに変わる。
 一瞬、視界が白く塗りつぶされたイコは、咄嗟にまぶたを下ろしていた。まぶた越しでもはっきり感じられる光が皮膚を透かして視界を赤く染める。
 閉じた目をすぐに開くことができず、イコは光に目がなれるまで数度目を瞬かせ――その耳に、ガタン、ゴトン、と一定のリズムで規則的に刻まれる重々しい音、そして風の唸る音が届いた。
 機械的な音に消されがちだが打ち寄せる波の音も微かに聞こえ、潮の香りが鼻腔をくすぐる。
 音に惹かれるように顔をそちらに向けたイコは、ゆっくりとまぶたを上げた。眩しさに滲んだ涙が視界をぼやけさせるが、強く吹きつける潮風によって水滴はあっという間に乾いていく。
 真っ先に目に飛び込んできたのは大きな風車だった。
 大空を背景に、イコがこれまで見たこともないくらい大きな風車がそびえ立っていた。
 潮風を受けてゆっくりと回転している八つの羽は、横幅でさえイコの身の丈よりも大きく見える。羽に張られた白い帆布はすでに古びて薄汚れ、所々に空いた大きな穴が経て来た時を感じさせた。
 しばし、風車の雄大な姿に見惚れていたイコは、はっと我に返ると慌てて周りを見渡した。
 風車に気を取られている間に繋いでいた手が緩んだらしく、ヨルダはイコから離れ、空を行く鳥たちを見上げていた。
 咄嗟にヨルダに声を掛けようとして――自然と浮かんだ苦笑いとともに大きく吸い込んだ息を吐き出し、今にも駆け出しそうな自分の身体をぐっと押さえた。
 伸ばしかけた手は、少女を案じて――というよりもただ自分が不安がっているだけなのだと気付いたから。
 それに陽光の下、どこか楽しそうに鳥を追うヨルダの邪魔をしたくはなかった。



 ヨルダの様子を気に掛けつつ、イコは辺りを見回し――目を瞠った。背後を圧迫し、延々と続く霧のお城の城壁以外、周囲を遮るものが見当たらない。
 大きな風車がそびえ立っているは、切り立った崖の上のひらけた場所だったのだ。
 そこは確かに城の一部であり、けれど同時に城の外でもあった。
 もちろんそこが崖の上であるからには、いくら遮るものがないといっても、限られた狭い地面から一歩足を外に踏み出せば遥か下方の海面に叩きつけられるか、あるいは途中の岩肌に叩きつけられることになることは明白だった。
 限られた狭い範囲――とは言え、例えばつい先ほど出てきた暗い部屋に比べればずっと広いはずのその場所は、やけに狭く感じられる。原因はやはり、崖上の地面の半分を占領しているようにすら見える大きな風車だろう。
 風車があるのは今イコが立つ――暗い部屋から続く出入口を出たすぐの場所――から見て、ひらけた地面のほぼ中央、やや左寄りだった。ひらけた崖上のほぼ中央に大きな池があり、風車の根元の大半はその大きな池に浸かっていた。
 一方、風車から見ると池を挟んだ向かい側、イコが立つ位置から見て崖の右端には、石材と木材を使用した足場があった。正方形の平べったい石板を大きなものから小さなものへ順に積み重ねたような階段――ちょうど、崖の外に面した一面を除いた三面に段差が付いていた――を上った先には、木材をしっかりと組み立てて造られた足場がある。しかし、その足場の先には何もなく、視線を先へと伸ばすと結構な距離を置いて、一部崖が崩れて岩壁を露にしたままの城の外壁に辿り着いた。城の外壁沿いには道――というより、足場が階段状に作られており、連続した足場は先ほど出てきたばかりの暗い部屋側――背後の城壁側へと続いていた。その数ある壁沿いの足場の内、一番低い位置にある足場に何か取り付けられているようにも見えるが、建物そのものが日差しを遮って濃い影を作り、はっきりと判別がつかない。もちろん、その城壁まで足場から飛び移るろうにも不可能な距離が横たわっている。
 ――他に道はないかな……
 ともすれば暖かな陽射しに和みそうになる気持ちを叱咤して、イコは上に視線を向けた。
 崖側の足場の先にある、城壁沿いの連続した足場による道は上へ――イコたちの背後にそびえる城壁側へと続いている。下からでは良く分からないが、城壁の上の方も道になっているのではないだろうか。斜めに見える線は恐らく階段だろう、と思う。
 ならば壁を伝って、まずは自分だけでも上に行けないだろうかと手近な城壁にへばり付いてみるが、手掛かりや足場になりそうな縁はそう都合良く付いてはいない。
 行き詰まったイコが、う〜ん、と眉間に皺を寄せて唸っていると、
 「――!」
 ヨルダの声が聞こえた。叫び声ではなく、何かをイコに知らせるための呼び声だった。
 城壁に手を付いたまま上方を睨みつけていたイコは、何事かと振り返った。その視線の先にヨルダの姿はなかったが、鳥を追いかけて風車の向こう側へ小走りに走って行ったのを覚えていたので、風車を回り込むようにしてヨルダに駆け寄った。
「ヨルダ、どうしたの?」
「――」
 空――否、風車を真っ直ぐ指差したヨルダは、駆け寄ってきたイコに一度ちらりと視線を向けた後、再び顔上げて風車を見つめる。
 ――あの上から――
 そう、言われているような気がした。
「うえ? ――あ」
 釣られるように視線を上に向けたイコは、それに気が付くと小さく声を上げた。
 崖上のひらけた地面のほぼ中央にそびえ立つ立派な風車。それは霧のお城の外にあり、同時に霧のお城の一部でもある――そう断言できる理由があった。
 城壁の高い位置から伸びる道――あるいは橋――が風車の上部と繋がっており、城壁と風車の間に背の高いアーチを形作っていたからだった。
 それはつまり――
 ――風車のてっぺんまで登ることができれば、あの上を通って城壁の道に行ける――?
 どうすればそこまで行けるか――それを考える前に少年は動き出していた。
 風車の根元で池に浸かっていない部分の崩れた足場から手近な縁に掴まり、身体をその上に持ち上げる。縁に沿って腹這いに進み、再び上方に手ごろな縁が見えたところでそれに飛びついた。
 何度か足や手を滑らせて落ちそうになるのを何とか耐えて、風車の半ばほどまで登ることができた。
 足元も多少広くなり、「縁」ではなく「狭い道」と呼んで差し支えないものになる。その代わり、それ以上イコの手の届く範囲に丁度良い手掛かりになりそうな縁は見当たらなくなってしまった。
「――っ」
 その時、ヨルダの声が一層高くなった気がした。
 あともう少しだと、そんな響きが感じられる。
 ――でも、これ以上は無理だよ――
 口を付いて出そうになった言葉が止まる。
 下にいる少女を覗き込むようにして身を乗り出したイコは、真っ直ぐ指された指が微妙に風車から外れていることに改めて気付いた。
 ――羽?
 時計回りにゆっくりと回る風車の羽をじっと見つめる。
 風車の羽は大きい。
 帆布が張られた羽の骨組も、少年が手にする棒とは比べ物にならないくらい太くて長い。
 子どもがひとり飛びついたくらいでは、びくともしないだろう程に。
 ――そうか!
 イコは羽が上ってくる側――池側の足場に立つと、次々と上へ上がっていく羽を真剣なまなざしで見つめた。タイミングを計り、羽に向かって思いっきり跳躍した。
 もし、上手く掴めなかったら――下は底が見えないくらいに深い池なので命の心配は要らないかもしれないが――という考えは、敢えて頭の片隅に追いやる。
 時間にすればほんの一瞬の跳躍。イコは必死の思いで目前に迫る羽の骨組みに掴まった。
 両手が力強く骨組みを掴む。しかし安堵している暇はない。動き続ける羽は、このままでは一度垂直になり、そうなればぶら下がっているままのイコでは下に落下してしまうだろう。
 イコは羽がまだ垂直にならないうちに、身体を少しずつ右――風車の外側へ向かって移動させた。羽がいよいよ垂直に近い角度まで持ち上がってくると、風車の中心から伸びる骨組み――縦の棒ではなく、帆布を張るための短い横棒に掴まり直す。その頃には、イコの身体は風車の上まで持ち上げられていた。
 羽が風車の頂点を通過し、再び下がり始める前に風車上へと飛び移る。
 数歩たたらを踏み――自分が本当に風車の上まで辿り着いたことを実感すると、イコは無意識の内に詰めていた息を大きく吐き出し、思わずその場に座り込んでしまった。じっとりと冷たい汗が背中を伝う。
「……はは、ほんとうに来れちゃった……」
 呟く言葉は微かに震えていた。



 そこから先は一本道だった。
 城壁から風車へと伸びた道――アーチと化している短い橋の上を渡り、壁沿いに伸びる通路に立つ。アーチの上を渡ってすぐの場所には、不思議なソファが置かれていた。
 そのまま壁沿いに道を進み、眼下にあるひらけた崖の上を越え、前方に見える城壁まで道は続く。途中、階段を下り突き当たりに差し掛かると、突き当りの右側――城壁に角の生えた子どもの石像が置かれていた。
「……っ」
 イコは一度石像の前で足を止め、その唇が小さく戦慄き、けれど言葉を発することなくきつく結ばれる。
 振り切るように突き当たった道を今度は左に進む。間違っても階段とは呼べないような足場と足場の間の高さを飛び降りて、やがて一番下の足場に辿り着いた。
 足場に取り付けられていたのはレバーだった。
 イコは躊躇わずレバーを動かした。
 ――ガタンッ!
 一度大きな音と振動がした後、ガラガラと何かが動き出す音が響き、イコが今立つ側から風車のある崖上の足場に向かって新たな足場が伸び始めた。
 しかし、足場同士が完全に繋がる前に、伸びていた足場は動きを止めてしまった。
「ええ!? そんなぁ……」
 あともう少し、と言うには距離が空きすぎている。
 いつの間にか、ヨルダも向かいの足場にやって来ていた。
 近くて遠い、今の二人の間の距離。
 イコは、伸びた足場の端ぎりぎりの所に立つと、目の前で佇む少女に向かって精一杯腕を伸ばした。
「ヨルダ!」
 力強く、呼びかける。
 彼女の手を取り損ねることなど少しも考えていない。
 そんなことはありえない、とよく知っていたから。
 それでも、ほんの少しだけ思う。
 ――道は、本当にこれだけ?
 ――もしかして、もっと安全な道があったのかもしれない。
 こうするしか道はない、先へ進めない、そう確信してはいるけれど。
 ヨルダに、決して安全とはいえない行動を強要しなければならないから。
 湧き上がる迷いと不安は、少女に嫌われてしまうかもしれないことへの恐れに他ならない。
 けれど、そんな思いはあっという間に払拭される。
 目の前で、ふわり、と宙を舞う少女の姿に。
 自分に向かって伸ばされた白い腕を、イコは同じく精一杯伸ばした腕で掴まえた。



 無事に渡り終えたふたりは風車近くのソファで休んだ後、石像の向こう――城壁の内側へと至る道を開いた。
 イコは一度振り返り、広がる空と海と――遠方で霞む緑に目を向ける。
 それから、ヨルダを見上げたイコは明るい笑顔を浮かべて見せた。
「ヨルダ、行こう」
 繋いだ手が確かに握り返される。
 ふたりは再び城の中へと足を踏み入れた。




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