14.暗い部屋
薄暗い闇の中、いくら目を凝らしてもぼんやりと滲むような輪郭を見て取ることしかできない。
それでも、まったく明かりがないわけではない。薄暗い闇に徐々に慣れてきても目は無意識の内に明かりを求めて彷徨い、そしてこれまで何度も目にしてきたものを捉えた。
部屋の最奥の壁――ふたりが立っている場所と同じ位の高さの位置に、あの膝を抱え蹲った角の生えたこどもの石像があった。その手前、石床から伸びる燭台に灯された火が石像を照らし、同時により濃い陰影を生み出している。石像の影になってはっきりとは見えないが、これまでのこと――石像の動いた後にはいつも道が続いていた――を考えると、この暗い部屋を抜けることができる出入口が石像の奥にあるのだろうと思われた。問題は、その石像が置かれている高さ、になる。
ふたりが今踏みしめている入り口から続く石床は、途中で途切れる。イコは、ひとりでこの暗い部屋に入って来た時に気付いていたが、石床は途中で高さが変わっていた。石像のある壁側を始めとして、この部屋の大部分の床は、今、ふたりが立っている位置よりずっと低い位置にある。下の床に落ちてしまえば、梯子なしに上下を行き来することは不可能だろう。
イコはちらりと左手側の壁に目をやった。そこにはバルコニーに出るためにイコが使用した梯子がある。これを登ることはヨルダでもできるはずだ。しかし、それから先の行動――鎖に飛び移る真似は、さすがにできないだろう。
―― 一度、下に降りて仕掛けでもないか探してみようかな。
イコはそう考えて、下の床に降りるための梯子か何かないだろうかと、石床の縁を注意深く見つめた。すると、闇に紛れて見落としそうになったが、左の壁に取り付けられた梯子から程近い床の縁にも、梯子が掛けられていることに気が付いた。
――よかった、これならヨルダもいっしょに下に降りられる。
ヨルダひとりをこの場に残すような事態は避けられそうだった。そのことに安堵を覚え、イコはほっと胸を撫で下ろした。
「ヨルダ――……」
下に降りよう、と喉元まで出掛かった言葉が止まる。少女を促すために振り返りかけた体勢のまま、瞬きすることも忘れて、少年は目の前の存在に見入っていた。
すべてが朧に滲むはずの薄暗い部屋の中、ヨルダだけは違っていた。少女自身から放たれる淡い白光が、薄闇の中でその存在を鮮明に浮かび上がらせていた。
それはまるで、灯火のようで。
もし、暗い森の中から月明かりを感じることができたなら、暗い海の上で灯台の灯を目にしたら、こんな気持ちになるのだろうか。
それは不安を拭い去ってくれる。心を奮い立たせてくれる。
けれど同時に、その光は余りにも儚くて。今にも消えてしまいそうで。
知らずに、繋いだ手を握り締めた。
部屋の中を見渡していた少女の視線が、少年に向けられる。自分を見つめる少年の表情に何を見たのか、気遣うように顔を近づけ、ほんの少し首を傾げる。上質の絹糸のような銀の髪が、さらさらと流れ落ちた。
イコは我に返ると、なんでもない、と首を振った。
「梯子があったんだ。下に降りよう」
そう言って、棒を床の縁に架けられた梯子に向けた。
そして、梯子に向かって歩き出す。
下にはどんな仕掛けがあるだろうか、どうやって石像まで辿り着こうかと考えながら、同時に頭の片隅で、湧き上がってきた疑念と恐れがこだましていた。
――もし、この光がなくなってしまったら、ぼくはどうするんだろう……
梯子を降りても、そこでは石像への道を作るような仕掛けは見当たらなかった。だだっ広いだけの広間のようなその場所は、壁の隅に小さなツボなどが置かれているだけの殺風景な場所だった。石像の傍までよじ登るための足場にできそうな物すら見当たらない。
しかし、何気なく視線を頭上に向けたイコは、天井から吊り下げられた鎖に気が付いた。それはバルコニーに出るために利用したものとは違う鎖だった。あまり長さはなく、天井から伸びていることもあって、鎖の先はイコからあまりに遠い。どうやって取り付けたのか、そもそも一体何のためにあんな高い位置から鎖が下がっているのか、まったく見当が付かない。
――でも、なんだか気になるなぁ……
霧のお城は、意味のない仕掛けがあるような場所とも思えない。鎖の周辺に目を凝らすと、周囲の壁の高い位置で部屋を囲むように伸びる通路から、ある程度鎖の近くまで寄ることができそうだった。
しかし生憎、上の床から壁に掛けられた梯子を登って足場に上がっても、上がった先はむしろ袋小路で、より高い位置に延びる通路へ辿り着くことが不可能なのはわかっていた。また、バルコニーに出るために利用した鎖では短すぎて、そこを登ってバルコニーに至る以外に利用法はなさそうだった。バルコニーとは反対側、部屋の奥側の壁沿いに延びる通路へ行くために別の方法はないだろうかと、問題の通路を辿るようにして更に視線を移動させたイコは、部屋の奥、石像のある側の通路の左角でいっそう濃い影が落とされているのが目に入った。
イコはバルコニーの様子をよく思い出そうと頭を捻った。
暗い部屋の外観は、まるで死者を祭る霊廟のようで、城壁とは隔絶された一戸の建物のようにも見えていた。バルコニーの出入り口があった二階部分の壁と、周囲の城壁の間には狭い空間が空いていた。
――もしかして、あそこから奥に進むことができるんだろうか。
一度思い立ったら、いつまでも考え込むような真似はしない。
自分の予想が正しいか否か、実際試してみるのが一番手っ取り早い、とばかりに、早速バルコニーまで出ようと上の床から掛けられた梯子に足を向け――躊躇うように、その足が止まった。
光をまとったまま静かに佇む少女に目を向ける。
自分がいない――知らない――間にヨルダが影に襲われたのは、つい先ほどのことだ。再び同じことが起こらないと、どうして言えるだろう。
また同じことが起きたら――ヨルダの危機にすぐ駆けつけることができなかったら。
それを考えると足が竦んだ。
恐怖に竦む自分が情けなくて、唇を噛み締める。
その時、ヨルダが天井を――そこから下がる鎖を指差した。
それが、重要なものなのだと指し示す。
迷いかけるイコに、道を示してくれる。
その瞬間、少年の肩から力が抜けた。強張っていた身体が、思いが、すっと解される。
イコはゆっくり瞳を閉じて、深く息を吸った。身体中の嫌な予感や、不安な気持ちを全て吐き出すつもりで大きく息を吐く。
ふたりでこの城を出る。そうするのだと、自分で決めた。
この人を守る。誰に言われたことでもない、自分に誓ったことだ。
だから、この城を出るためにどんなことでもする。
だから、ヨルダを守るためにいつどんな時だってすぐに駆けつける。守り抜く。
目を開けて、顔を上げた。
瞳には、揺るがない意思が宿っている。
「ヨルダ」
呼ばれて、少女は少年の顔を見つめ返した。
「ちょっと行ってくるね」
イコは、にっ、と多少の強がりの混じった笑みを浮かべた。
いってらっしゃい、と少女が微笑んだような気がした。
バルコニーに出て、イコは自分の考えが正しかったことを知った。バルコニーを出て右手側、霊廟のような建物と城壁の間は狭い路地になっており、その路地を抜けると暗い部屋へと通じていた。再び部屋の中へ入ると内壁を囲む通路に出る。
まったく違う、見知らぬ場所に出なかったことに胸を撫で下ろしつつ、視線はヨルダを探し――探すまでもなくすぐに見つかった。
暗い部屋の中のより暗い底で、まるで浮かび上がるような鮮烈でしかし柔らかい白が真っ先に目に飛び込む。
それだけで、充分だった。
イコは再び視線を前へと向けた。通路を駆けるようにして進み、できるだけ鎖に近付く。
しかし、通路は石像の上を通り、横の壁――通路を行くイコから見ると前方の壁――に沿って折れ曲がると、すぐに途切れて終わっていた。通路が終わるぎりぎりの所に立っても、天井から伸びる鎖には未だ遠い。何とかもう少しだけでも鎖に近付けないかと辺りを見渡していたイコは、壁から出っ張った縁に目を留めた。
やや高めの位置から横一直線に伸びるその縁は、手を伸ばせば掴むことができた。イコはそのまま腕に力を込めて身体を持ち上げる。もちろん、普通はこんな狭い部分を足場になどしない。幅はないに等しかったが、それでも縁の上に立つことができた。
後ろに引かれそうになる身体を無理やり壁に張り付かせると、爪先立ちになりつつ慎重に横に進む。
足を踏み外して落下すれば、無事では済まないだろう高さだ。冷や汗が手のひらをじっとりと濡らす。
やがて、鎖にもっとも近付いた位置にまで辿り着いた。しかし鎖に飛び移ろうにも、壁に張り付いたままの体勢ではろくな助走もつけられない。
――ここから飛んでも……届きそうにないな……
鎖に届く前に下の床に叩きつけられる自分の姿が容易に想像できた。せめて、もっと高い位置から飛び移ることができれば、きっと落下していく途中で鎖に手が届くのに、と思う。
上にも掴まることができる縁はないかと顔を上げたイコは、縁ではないけれど望んだもの目にした。
――梯子!
頭ふたつ、みっつ分高い位置に確かに梯子が取り付けられていた。咄嗟にイコは梯子に向かって手を伸ばしたが、その手が空を切る。届かない。
けれど、それはあとほんの少しの距離でしかない。
イコは、ごくり、とつばを飲み込むと、視線は上方の梯子だけに固定して、頼りない足場を蹴って上に跳んだ。もう一度伸ばした手が、かろうじて梯子の先を掴む。掴んだ手に力を込め、そのまま身体を持ち上げて、梯子を登る。
梯子に身体を預けるようにして一息つくと、背後を振り返る。鎖はちょうど梯子の真正面にあった。梯子をある程度の高さまで登り、その位置から飛び降りるようにして鎖に向かって跳躍した。
落下途中の距離が加わったことによって、十分距離を稼ぐことができた。イコはぶつかるようにして鎖に掴まった。
ガシャン、と大きな音を立てて鎖が揺れる。
すると、イコの重みが加わった途端、鎖が下に向かって伸び始めた。ガラガラと響く音とともに、視線が勢い良く下がって行く。そして、下の床まで幾許もない高さまで下がったところで鎖は止まった。
それを驚く暇もなく、部屋全体が揺れる振動と轟音が鳴り響いた。足元の振動に驚いたのだろう、ヨルダが慌てて下がる目前で、下の床の奥半分――石像がある壁側の床――がせり上がった。
せり上がった床は、ふたりが入ってきた入り口付近の床と同じ高さ――壁の中に設置された石像と同じ高さまで上がって止まった。
「やった!」
意図して行った結果ではなかったが、道を開くことができたことにイコは素直に歓声を上げた。そのまま一度鎖から飛び降りようとして――鎖が下がったため、床までの距離はほとんどない――思い止まる。
せり上がった床側の今や壁と化した部分には、ふたりが梯子を伝って下りて来た出入り口のある側と違い、梯子は取り付けられていない。
このまま下に降りても新たに現れた壁を登ることはできないが、この鎖を使えば。
イコは鎖の中ほどまで登ると、石像側の床に向かって身体を揺らした。長さがある分、揺らせば揺らすほど振幅の幅は増大して行く。しばらく繰り返す内に、鎖から手を離すだけで上の床に立てそうな位置まで振り上げられるようになった。
すぐには鎖から手を離さず何度か鎖を揺らし続け、タイミングを計ってから前方――石像側の石床に向かって大きく跳んだ。
勢いが良すぎて数歩たたらを踏む羽目になったが、危なげなく着地する。
――次はヨルダを……
呼ぼう、と振り返ろうとしたその時――
「…………っ!」
総毛立つような感覚。
重苦しい気配。
音が消えた薄闇の部屋の中、イコは立ち上る深い闇と暗い光を目にした。
「ヨルダ、こっちに!」
イコは急いで縁に駆け寄り、下にいるヨルダに向かって思い切り手を伸ばした。
呼ばれたヨルダはイコに駆け寄ろうとするが、その背後に影が迫る。
ここにはあの石像がある。そこまで、ヨルダを連れて行くことができるなら――
ふたりの手が合わさり、強く握られる。
イコは精一杯の力で少女を引き上げようとし――背後から襲う衝撃に、目の前が眩んだ。
手の力が抜け、ヨルダを取り落としてしまう。
「ヨルダっ!」
イコが立つ側の床の上にも、影たちが這い出る漆黒の穴が現れていた。
自分の迂闊さを呪う暇もなく、焦点が合わさってきた視界の先で、真っ黒な影が少女の光を覆い隠した。
影はヨルダを抱えあげると、梯子に向かっていく。
慌てて飛び降りたイコが後を追おうとすると、他にも梯子を伝って降りてきたもの、下の床に現れた黒穴から出てきたもの、イコを追って下に降りてきたもの、翼を生やし舞い降りてくるもの――数多くの影たちがイコの行く手を阻んだ。
次々と襲い掛かられ、足取りの鈍るイコを他所に、ヨルダを抱えた影は梯子を登っていく。
その先にも闇の澱んだ穴があるのだろう。
イコは何度も弾き飛ばされ、殴り倒されてもその度に立ち上がり、時には辛うじて攻撃をかわし、必死になってヨルダを追った。
掴み掛かる影たちを振り払うようにして梯子に飛びつき、一段一段手を掛けるのももどかしげに上に登る。
「ヨルダ!」
叫ぶような呼び声を上げて、イコはヨルダの姿を探した。
その時には少女の姿はほとんど見えなかった。ただ、脈動するような漆黒の穴があるだけだった。
けれど、それは微かであったけれど、イコは確かに自分を呼ぶ声を聞いた。
「ヨルダ!!」
飛びつくようにして、影穴に向かって身を投げ出す。躊躇なく影穴に突き込んだ腕は、確かな感触を得て、それを力いっぱい引き上げた。
少しずつ白い光が現れる。それに力づけられたイコは、更に力をこめて手にした温もりを引っ張りあげた。
「もう……少し……!」
ずるり、と音がしそうな感触の後、一気に抵抗を失って勢い良くヨルダが引き上げられる。
しかし、それに安堵している暇はなかった。
ヨルダを急いで立たせると、壁を背に、イコは迫り来る影たちに対峙した。
最後の影が空気に溶け、再び雑多な音が満ちて行く中、イコは大きく息をついた。
背後に庇っていた少女を振り返り、様子を窺う。
イコの気遣う表情に気付いたヨルダは、柔らかな微笑を浮かべた。それを目にしたイコの顔にも笑顔が浮かぶ。
それから、石像へ目を向けた。
正直、身体は疲れきっていたが、新たな道を前にすればそれも薄れる。
ふたりは梯子を降りて下の床に降りた。イコは鎖の真下まで来ると、跳び上がって鎖に掴まり、奥――石像がある側の床の上にもう一度飛び移った。
さすがに、もう影が出てくることはない。それでも周囲を気にしつつイコは床の縁までくると、腕を伸ばしてヨルダを呼んだ。駆け寄り、伸ばされた少女の手を掴み、今度こそヨルダを床の上に引き上げた。
そして、ついに石像の前に辿り着く。
その瞬間、ヨルダから放たれる光の奔流が、暗闇を裂き、そして新たな道が開かれた。
石像の後ろから現れた新たな出入り口からは、眩い白光が差し込み、風が吹き込んでくる。
光と風に包まれて、少年と少女は暗い部屋を駆け抜けた。