10.跳ね橋

 シャンデリアの部屋からでると、そこは二階部分と同じく、部屋を出てすぐの所は高い鉄柵に囲まれたバルコニーになっていた。違うのは出入り口の正面に跳ね橋の代わりに、回廊へ至る階段があることだ。頭上を見上げれば二階で目にした跳ね橋がある。前方に広がる中庭は、そびえ立つ城壁が濃い陰影を落としていた。
 回廊は左右に分かれて中庭を一回り小さく囲っており、中庭へと降りる階段は左右の道共に回廊の突き当りにひとつずつあるだけだった。回廊によって内と外に分けられた中庭は、左右にひとつずつある、回廊をくりぬくようにして作られたアーチ状の門によって繋がれていた。
 ふたりの真正面、回廊を挟んだ向かいには城壁に近接して石像が設置されていた。そこへ行くには中庭を通っていくしかない。回廊の階段は内側に向かって伸びているので、わざわざ中庭を大回りしなくてもよさそうだった。
 もう少し周囲をよく見ようと、イコは少女の手を引いたままバルコニーへ一歩足を踏み出し――
 その足が、止まった。
 何度体験しても、決して慣れる事のないその瞬間。
 瞠目する少年の前に、暗い闇の深淵が現れていた。



「走って!」
 もはや見慣れた漆黒を確認した瞬間、イコは少女の手を引いて猛然と走り出した。
 まず階段を下った先の回廊に、左の道を塞ぐように、ひとつの影穴があった。けれど現れた影穴がひとつでないことはすぐに知れた。回廊を渡って、あるいは空を飛んで向かってくる影たちを目にしたからだ。
 ふたりが階段を下りきって回廊に足を踏み入れると、待ち構えたように傍らの影穴から暗い光が立ち上った。そしてそこから新たな影が這い出してくる。
 狭い回廊の上では、影を避けて左の道を進むことは不可能に思えた。イコはとっさに右の道を選んだ。
 しかし回廊の突き当たり近くにも影穴が現れており、そこから現れた影が間近まで迫っている。背後からは先ほど現れた影が追ってくる気配があった。更に、上空からは漆黒の翼を羽ばたかせる影たちの姿。
 ――多すぎる!
 あっという間に四方を囲まれ、イコは唇を噛み締めた。
 すでにふたりの周囲は影たちによって黒く塗りつぶされている。何とか突破して石像の元へ急ぎたいが、棒を振るって影たちが近付かないよう牽制することがやっとだった。
 しかし、多勢に無勢だ。牽制するにも少年一人の力では限界があった。
「……っ、やぁっ!」
 大きく振るった一撃に、少女と繋いでいた手が離れる。加えて、踏み出した歩幅分の距離が空く。
「しま……っ!」
 慌てて振り返った、その隙を突かれた。
 横殴りに襲ってくる強烈な一撃に、未発達の少年の身体は軽々と吹き飛ばされ、回廊の床に叩きつけられた。
 痛みを堪え立ち上がってきたところに、更にもう一撃が加えられる。
 急速に狭まり、暗くなってゆく視界の中、必死に、少女へ視線を向ける。
 ――はやく、逃げて!
 けれどその思いも空しく、
「……!」
 少女の悲鳴。飛び立つ黒い影に抱えられた白い輝き。
「――!」
 イコは無理やり身体を起こすと、回廊の手すりに手を掛けた。
 少女を連れ去った影は、回廊に囲まれた中庭の外側、石畳の広場の片隅に現れた影穴に向かっていた。階段を降りて行っては遠回りになる。回廊から中庭までかなりの高さがあったが、イコは迷わず手すりを飛び越えた。
 上手く着地することができず、したたかに腰を打ち付けてしまったが、痛みに漏れそうになる悲鳴を飲み込んで立ち上がる。その時には、すでに少女を抱えた影は闇のたゆたう淵に向かってゆっくり降下を始めていた。
「待てっ!」
 叫び、駆け出す。
 イコを妨げるように立ち塞がる影たちにはわき目もふらず、一直線に少女を目指した。
 ぐったりとした少女のつま先が今にも影穴に触れようかという、その時。
「やあっ!」
 イコの振るった棒が少女を抱えていた影を捉えた。更に踏み込み、二度、三度と棒を打ちつける。
 この猛攻に耐え切れず影は石畳に叩きつけられ、少女は投げ出された。
 イコは少女に駆け寄ると、蹲ったままの少女の手を取った。
 ――どうしよう、走れるかな?
 握り締めた手から不安が伝わったのだろうか、顔を上げた少女のまなざしは少年を真っ直ぐ見据えていた。そして小さく首肯する。
 大丈夫、と言うように。
 イコも頷きを返し、少女を立ち上がらせると、一度大きく棒を振るって近寄ってきた影たちを退けてから中庭を疾走し始めた。
 回廊沿いに中庭を駆け抜け、アーチをくぐって内側の中庭に出る。
 目の端にちらつく影、上空から響く羽ばたき、背後から迫る圧迫感。
 後ろを振り返る暇はない。立ち止まれば再び四方を囲まれてしまうだろう。
 今にも襲い掛かられそうな恐怖に竦みそうなる身体を叱咤して走る。
 目指す石像まであと僅かだった。
「もう少しだよ! がんばって!」
 前を見据えたまま、手を引く少女に声を掛ける。
 石像手前の階段を駆け上ろうとした時、間近で不吉な羽ばたきが聞こえた。
 ――追いつかれた!?
 城壁によって陽が遮られ薄暗くなっている中、一層濃い影が落とされる。
 しかし、その時には、ふたりは一気に階段を駆け上っていた。
 石像がすぐ間近まで迫る。
 そして少女から放たれた光が、在り得ざるすべてを消し去った。



 安堵の息を吐く少年の前で、石像がゆっくりと動く。
 現れた出入り口は、その向こうが外に通じているのだろう、まばゆい白光を放っていた。
 ――行こう。
 そう、少女に声を掛けようと手を差し出した状態で、イコは立ち尽くしてしまった。
 少女は、新たな出入り口が現れると同時に、出入り口に向かって駆け出していたのだ。
「……え?」
 これまでにない少女の行動に呆気に取られている内に、少女の姿は白光に霞み、光の向こうへ消えていってしまった。
「え、ちょ、ちょっと待って!」
 我に返ったイコは、慌てて少女を追い駆けた。



 そして少年はもうひとつの出会いを果たす。




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