Prologue
イコの13歳の誕生日。それは特別な日だった。
真新しい、上着とズボン。いつも身に纏っているものと違い、この日のためにあつらえられた前掛け。日が昇る前に目覚めたイコは、一つ一つの感触を確かめるように、ゆっくりとそれらを身に着けた。新品揃えの中、靴だけは履き慣れたお気に入りのものにした。そして最後に帽子代わりにまっさらな布を頭に巻きつける。
すべての身支度を終え、少年は静かに待つ。
その時がくるのを。
その日、村は異様なほど静まり返っていた。いつもなら朝日とともに働き出す大人たちの姿はなく、家の手伝いをしながらも楽しそうに走り回る子供たちの姿さえ見えない。
村を覆う静けさの正体は、畏れ。
しかし、程なくしてその静寂が破られた。
蹄の音が聞こえてくる。その音は、真っ直ぐイコの家を目指していた。
うなだれるようにして椅子に腰掛けていた男は、その音を耳にすると緩慢な動きで立ち上がった。その顔には苦悩の跡が深く刻まれている。己がどんな表情を浮かべているか痛いほどわかってはいたが、それを隠すこともできないまま、妻と息子に向け、押し殺した声で言った。
「……神官様たちがいらっしゃる。支度はいいな?」
それまで息子を抱きしめていた女の身体が、ぶるり、と震える。夫の言葉に答えず、よりいっそうの力を込めて息子を抱きしめた。
それを咎めることもなく、黙したまま痛ましげに見つめる男の視線が自分を真っ直ぐ見つめる息子の瞳を捕らえた。
緊張に強張った顔をしながらも、その瞳は驚くほど澄み切っていた。少年は父に向かって小さくうなずくと、ぎこちない動きで腕を伸ばし、未だ自分を抱きしめ続ける母をそっと抱き返した。
やがて、蹄の音が家の前で止まった。
人が地面に降り立つ気配。
時が、来た。
男は深く息を吐き、ゆっくりと扉に向かう。そして振り返り、息子に手を差しべ、促す。
「さあ……」
のどの奥に重いふたがされているようだった。それ以上、どんな言葉も出てきてはくれない。それがひどく情けなく、腹立たしかった。
少年は今もなお自分を強く抱きしめる母に、そっと囁いた。
「おかあさん……ぼくは、大丈夫だから」
まだ声変わりもしていない、幼さの残る透明な声。
少年を拘束していた腕が、力を失う。自分の腕からするりと抜け出した息子を見つめる母の顔は涙に濡れていた。やがて、行き場を失った両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、イコ……」
子供のように泣き崩れる母に、少年はもう一度、「ぼくは大丈夫」と囁く。
「イコ」
背にかかる父の呼び声に、少年は頭を上げて振り返った。家の扉は父の手によって開け放たれている。
光、あふれる世界へ通じる扉。
けれど、少年は知っていた。
扉の先に待ち受けているのは光などではなく、暗い、暗い場所であることを。
それを知っていてなお、少年はためらうことなく扉をくぐる。
すべてに別れを告げて。
決して振り返ることなく。
見送る父の視線の先、その少年の頭上には空に向かって二本の角が伸びていた。
家の外で少年を待ち構えていたのは、三人の神官と三頭の馬だった。
背後で扉の閉まる音がする。それでもイコは、首にぐっと力を込め、自分を迎えに来た者たちから視線を逸らすことはなかった。
護衛の二人の神官は、物々しい鎧を身につけ頭部をすべて覆う鉄仮面の兜を被っていた。兜には両側に角が飾られている。神官たちの兜だけではなく、馬に被せられた仮面にも額の部分から、一本の角が模してあった。
角を持たないのはただ一人、ローブを纏い、頭部を覆いつくす布を被った神官長だけであった。
「手を」
神官長が短く告げると、後ろに控えた神官の一人が短い鎖でつながれた腕輪取り出す。
少年が両腕を差し出すと、神官が腕輪をはめた。
少年を馬に乗せ、神官長が同じ馬に乗る。残り二人の神官も、それぞれ馬にまたがった。
そして誰に見送られることもなく、彼らは出発した。
村では、十数年、あるいは数十年に一度、角の生えた子どもが生まれた。
イコもまた、生まれたときから頭に二本の角を生やしていた。しかし、村中を探しても少年のほかに角を持ったものはいなかった。
村にはひとつのしきたりがあった。
角の生えた子どもが生まれたら、その子どもを海の上に聳え立つ誰もいないお城――どこか霞がかって見えるその城は、霧の城と呼ばれていた――に生贄として捧げなければならない、と。
十三歳の誕生日。
それが角の生えた子どもをお城に捧げる日だった。
霧の城へ向かう短い旅。
イコはこれから自分の身に起こることを大体わかっていたけれど、逃げ出そうとしたり、暴れだしたりはしなかった。
それは自分にとって当然のことと思っていたから。
静かな旅は続いた。聞こえるのは森のざわめきと馬の蹄の音だけだった。
しばらくすると森の木々がまばらになってきた。そろそろ森を抜けるのだろう。遮るものが減ったことで、木漏れ日がより強い光となって差し込んでくる。まぶしさに目が眩んだ少年は、思わず不自由な手を動かして光を遮るようにした。それでも目を細めて前を見据える。やがて森を抜けると蹄の音が硬いものへと変わっていった。視界が開け、固い石畳へと姿を変えた地面の上に所々に蔦の生えた朽ちた石柱が立ち並んでいた。
かつては霧の城へ通じる橋がかかっていたのだろう名残だけを残すその廃墟の先には、海の上に聳え立つ巨大な城の姿があった。
怯えたように嘶く馬をなだめ、崖の下へと降りて入り江に辿り着いた。馬を下りると今度は用意されていた小舟に乗り換えた。
神官の一人が櫂を漕いだ。小舟が城に近づくにつれて、あたりは徐々に霞がかってくる。
城への入り口は洞窟のような造りになっていた。櫂を漕いでいない方の神官が仕掛けを動かして外界と城とを遮断している柵を動かし、中へと舟を進める。船着場に到着して、ようやく舟は止まった。
城の中はイコが思っていたよりずっと暗く寂しい気持ちになったけれど、それでもイコは我慢して、大人しく神官長に従い舟を降りた。
神官長は舟を降りると、神官の一人に指示を出した。
「剣を」
言われた神官は、船が入ってきた方向、外に向かって伸びる狭い崖へ向かう。その間に神官長はイコともう一人の神官を連れて更に城の奥へと進んだ。
洞窟のような船着場を抜けると、そこは塔の内部のように見えた。驚くほど広い円形のその部屋の中心部には、柱のようなものがあった。柱、と言い切るにはあまりにも大きすぎるそれには、イコたちの真正面に不思議な石像が二体飾られていた。
イコは瞬きも忘れて石像に見入っていた。
その石像はひざを抱えてうずくまる、角の生えた少年、に見えた。
そう、その姿はまるで――
そこまで考えて少年は浮かんできた言葉をむりやり心の奥底に押し込んだ。
わずかに遅れて、先ほど神官長に指示を受けた神官が一振りの剣を手に携えて現れた。
剣を携えた神官が石像の前に進み出る。鞘から抜かれた剣は自身から光を放っていた。そして驚いたことに剣の正面に強い光が現れた。それは石像に向かって幾筋の光となって放たれ、呼応するように石像も輝き始める。そしてより一層強い輝きが剣から石像に向かって放たれると、地響きを立てて石像が両側に動いた。
石像が動いた跡には、柱の中へと通じる入り口があった。
中に入ると、薄暗く狭いその部屋にはレバーが設置されていた。全員が中に入ると、神官長がレバーを動かした。すると振動音と共に床がせり上がる気配を感じた。
しばらくして、ようやく振動と音が止み静かになる。入ってきた入り口が塞がれていたが、先程と同じように神官が手にした剣で道を開いた。
外は再び様相が変わっていた。
石造りであることに変わりはないが、そこは円形の部屋ではないまったく別の場所だった。入ってきてすぐのところの頭上から、前方、壁の上方へ伸びる階段があった。二階部分から伸びているらしい。二階部分へ通じる階段を上ると、そこは広大な空間だった。壁に向かって伸びる階段とは反対側、つまり二階部分に上ってきたイコたちの前方、部屋の最奥部には祭壇らしきものが見える。
そして周囲を見渡せば、棺のようにも見える沢山のカプセルが壁一面に設置されていた。
イコはその内のひとつのカプセルに入れられた。
中には両腕を固定する板があった。腕を固定されると身動きもままならなくなる。
そうして神官たちはイコの入ったカプセルの蓋をゆっくり閉じた。少年の周囲に闇が満たされてゆく。
蓋が完全に閉じられる直前、イコの耳に神官長の声が届いた。
「我々を恨むでない」
感情のこもらない淡々とした声音。
「すべては村の為なのだ」
蓋が閉じ、少年の世界が漆黒に覆われる。
遠ざかる足音。
そして静寂が訪れた。
とうとう一人きりになったイコは、静かに瞳を閉じた。
暗闇の中、思い出す両親の顔。
父はあまり感情を表に出さない人だった。けれど時々ひどく辛そうな顔で自分を見つめていた。そういう時は決まって大きな手で頭をなでてくれた。
母はよく泣く人だった。「ごめんなさい」と繰り返される言葉。
――角の生えた子に生んでしまってごめんなさい
――普通の子どもに生んで上げられなくてごめんなさい
大丈夫、と両親に語りかける。
物心ついた時から、ずっと言い聞かされてきた。
十三歳になったら、霧のお城に行かなければならない、と。
大丈夫。わかっているから。
不幸、なんかじゃなかったから。
だからそんな辛そうな顔をしないで。
もう、泣かないで。
暗闇の中、どのくらいの時が経っただろうか。
まだほんの少ししか経っていない気もするし、とても長い時間が過ぎたような気もする。
暗闇の奥深くに沈み込んだイコの意識は、突然起こった振動に引き戻された。
少年の入れられたカプセルが揺れ動く。驚いて身を捩るが両腕を固定されているのでほとんど動くこともできない。
揺れはますます激しくなり、とうとうイコの入ったカプセルはがくん、と傾いた。そして止まることなくそのまま倒れこむ。
次の瞬間、カプセルは床に激突した。その衝撃でカプセルの蓋が開き、腕を固定していた板が外れて、イコはカプセルの外に投げ出された。一瞬の浮遊感に思わずぎゅっと瞳を閉じたイコは、ろくな受身も取れないまま、激しく床に叩きつけられた。
意識が遠のく。
そして。
少年は夢を見た。