8.クレーン

 城壁に沿って伸びる通路を進んで間もなく、行き詰まる羽目になってしまった。
 道が途中で崩れ落ちている。ぽっかりと空間が空き、その向こうに再び足場――道が続いていた。
 崩落した跡を跳び越え、向こう側の足場へ至る。
 イコならば不可能なことではないだろう。しかし。
 少年は手を繋いだ少女を見上げた。
 傍らに佇む少女が崩れた跡を跳び越えられるとは思えなかった。
 そもそも道の崩れ落ちている幅は、村の大人たちですら躊躇するだろう程に広い。「角の生えた自分だから」跳べる、と言うことができるのだとイコは自覚していた。
 ――背負って、跳ぶとか……
 そう考えて、すぐに頭を振る。いくら大人と比べても遜色ないくらいの力があるといっても、そして少女がとても華奢なひとであっても、ひとり分の重さを背負えば、走る速度も跳ぶ飛距離も格段に落ちてしまう。それでは、自分ひとりで跳んでようやく届きそうな距離を越えることはできない。
 けれど戻る事だってできはしない。
 だから。
 イコは繋いでいた手を離し、少女を壁際に寄せると、通路の崩れた端から少し下がって距離をとった。少女に目を向け、力強く頷いてから、
「見てて!」
 それだけ言って、思い切り駆け出した。
 通路の崩れた先端ぎりぎりの所でひざを柔らかく曲げ、次の瞬間、目一杯の力を込めて地面を蹴り出し跳躍する。
 崩れた跡の向かいにある通路に片足が着いた。後ろに引かれそうになる身体を前に倒すようにして、更に一歩、二歩と地面を踏みしめ、立ち止まった。
 まず、自分が無事に跳べたことに安堵の息を漏らした。そして少女を振り返り、ぽっかりと空いた空間の縁ぎりぎりまで歩み寄ると、少女に向けて手を差し伸べた。
「こっちへ! 絶対、掴むから!」
 言葉が通じないとわかっていても、それでもそう言って少女を呼んだ。
 少女が少年を透明なまなざしで見つめる。
 イコは彼方にいるひとを、真剣なまなざしで見つめ返した。
 少女は頷くことも、拒絶することもしなかった。
 僅かに後ろに下がり、そして自分に向かって手を差し伸べる少年に向かって跳んだ。
 そこに躊躇いや恐怖はなく、差し出された手に向かって伸ばされた白い腕が、少年から逸らされることのない透明なまなざしが、少女の無言の信頼を示していた。
 イコはその瞬間、瞬きすることも忘れて少女に見入っていた。
 ――どうして?
 必ず掴むと言った言葉は、そこに込めた想いは紛れもない真実の気持ちだけれど。
 ――どうしてきみは、そんなにぼくを信じてくれているの?
 目の前で、軽やかに宙に舞った少女の身体が、通路に達する手前で落下していく。
 白い繊手だけがイコの手に届いた。イコは少女の手を確かに掴み、少女はその手を強く握り返した。
 イコの小さな身体に少女の重みが掛かる。
 これまでの、少女と出会ってからの短い時間の中で、似たようなことは何度もあった。
 古い橋が、突然崩れた時。
 少女が漆黒の穴に連れて行かれてしまった時。
 高い所に上るため、少女に手を差し伸べた時。
 少女を上へ――自分のもとへ引き上げる度に、イコは少女の重み――少女を重いと感じたことはなかったけれど――を感じていた、はずだった。
 しかし今、少年の身体に掛かる重みはこれまで感じたことのないものだった。
 ――ぼくは本当はぜんぜんわかっていなかったんだ。この手を失ってしまうことがどういうことなのか。
 少女を引き上げながら、少年は胸の内で小さく呟く。
 自分の手の中にある重さを、イコは初めて重いと感じた。

 少女を無事に引き上げ、再び城壁の通路を進む。
 しばらく進むと、再び道が崩れていた。仕方なしに足を止め、イコはふと眉をひそめた。
 ――なんだか……どこかで見たことがあるような……?
 螺旋階段を上っている時も同じように感じたことがあったが、その時以上に、自分は確かにこの景色を知っている、と確信する。
 通路の途切れたずっと先には半円を描く足場があり、城壁に接していない部分は、入り口と思しき空間を除いて壁の代わりに手摺りが設けられ、上方には城壁の一部が飛び出したような屋根がある。そこは何かの部屋のようにも見えた。その部屋の屋根の上に巨大なクレーンが設置されている。クレーンから伸びる鎖を辿って視線を動かせば、その先には大きな檻があった。さらに檻の向こうへ目をやると、綺麗な円の形に切り取られた足場が見える。その場所から、二人が立っている場所の向かい側の城の建物に向かって橋が伸び、しかしその橋は城に達する前に、半ばから力なく下に下がってしまっていた。
 どこかで見た光景のはずだ、と思う。
 ――クレーン……檻……円形の足場……それに、あの橋。
 考えれば考えるほど、この景色を知っている、という思いは確信に変わっていく。しかしどうしても、いつ、どこで見た景色だったかが思い出せない。
 イコはしばらく眉間にしわを寄せ、息を詰めて考え込んでいたが、やがて大きく息を吐くと両手で頬をパチン、と叩いた。
 こんなことで立ち止まっていても仕方がない。何とかして先に進めないだろうかと周囲を見渡す。
 ぐるりと動かした視線が、ある一点で止まった。
 ちょうど、通路が崩落している辺りの城壁から、クレーンの下の部屋に向かって一本の鉄パイプが伸びていた。錆びて所々がいびつに歪んでいたが、一見して城壁に固く取り付けられているように思える。
 イコはパイプに近付くと、両手をかけて力いっぱい引っ張ってみた。鉄の硬い手ごたえが伝わってきて、イコはパイプが動いたりましてや外れたりしないことを確認すると、今度はそこにぶら下がった。少年の体重を支えてもパイプに異変はなく、試しにパイプを伝って二、三歩分左右に動いてみても僅かにぐらつくこともない。
 ――これなら、パイプを伝って向こうに行けるかな?
 イコは一度通路に降り、少女に「ここで待つように」と身振りを交えて伝えると、再びパイプを掴んでクレーン下の部屋に向かった。
 棒を手にしたままなので掴まり辛かったが、これまでも同じような状態で鎖や梯子を登ったり壁の縁に掴まってきイコは、すぐにちょうど良い掴まり方、移動の仕方のコツを飲み込んだ。
 それでもパイプ伝いに腕の力だけで移動することは肝が冷えた。足は宙を掻き、地面が遥か下方にあるとなればなおさらだ。
 イコは極力下に顔を向けないようにしてクレーン下の部屋を目指した。

 ようやく辿り着いた部屋で、間近になった床に慎重に降り立つ。
 内側は城壁に接しているが、外に向かっては低い手すりだけが壁の代わりをしているため、見晴らしの良い部屋はまるで自分が中空にいるような気さえ起こさせる。イコが入ってきた入り口の向かいにも出入り口の空間が空いていたが、その先の道もすぐに途切れてしまっていた。ただ、城壁に取っ掛かりになりそうな横に長い細工が、上に向かって等間隔に作られていることが印象に残った。それだけ確認すると、イコはクレーン下の部屋に戻った。
 その部屋の中央部分の城壁近くには、一台のレバーがあった。
 イコは今までと同じように、レバーに手を掛けて思い切り動かした。
 その瞬間、ガゴン、と重々しい音が響くと共に細かな振動が起こり始め、鎖の巻き上げられる音が聞こえてきた。ぎょっとして振り返った少年の目に、引き上げられる檻が飛び込んでくる。
 ――これ、クレーンを動かすためのものだったんだ。つまり、ここはクレーンの操作室ってことなのかな。
 見守る少年の視線の先で、鎖の巻き上げが止まった。檻は、先ほどまで吊るされていた鎖の長さの半ばまで引き上げられている。しかしクレーンは間をおかず再び重々しい音と振動を立て、少年の目の前で今度は檻が横――今、少女がひとり立っている通路に向けて動き出した。
 檻は通路に接する手前で、今度こそ完全に停止した。よく見ると檻の天井と通路が大体同じ高さにある。
 そのことに気付いたイコは、ふと思いついて、もう一度レバーを動かした。
 再びクレーンが作動し、檻は先ほどとは逆にまず横に動き、それから下に降ろされて止まった。
 手すりから身を乗り出すようにして下を見下ろすと、檻の天井と円形の足場がほぼ平行しているように見えた。円形の足場と檻は決して狭くはない空間によって隔てられていたが、跳び越えることが不可能とは思えなかった。
 少年は、よし、と小さく呟き、三度クレーンを作動させた。檻が再び少女の待つ通路の手前で止まったことを確認すると、飛び付くようにしてパイプに掴まり少女のもとへ急いだ。

「ただいまっ」
 元気な声を上げて、パイプから通路に勢い良く飛び降りた。優しく微笑む少女に輝く笑顔を返して、イコはすぐさま檻へ目を向けた。思った通り、通路と檻の間にはそれほど距離が空いていない。
 イコはひらりと檻の上に飛び乗った。ガシャン、と派手な音が鳴ったが、もともと檻が重量のあるものであるせいか、ほとんど揺れることはない。
「こっちに!」
 イコは振り返って少女を呼んだ。少女ひとりでも跳び越えられそうな距離であるため、到着の予想される地点は空けておいた。下手をすれば跳んできた少女とぶつかってしまい危険だからだ。
 少女がふわり、と跳ぶ。しかし僅かに届かず、かろうじて上半身を乗り上げるようにして檻の天井に掴まる。
「わあ!!」
 あわや落ちかけた少女よりよほど慌てて、イコは少女の腕を取って、檻の上に上ろうとする少女を手助けした。少女がどこにも怪我を負っていないことを確認すると、安堵のため息を吐いて少女を檻の真ん中――檻を吊るす鎖のところまで連れて行った。
「ここにいてね」
 そう言って、イコは再び通路に飛び移ると、パイプを伝ってクレーンの操作室に向かった。
 操作室に着くと、少女が檻の真ん中にいることを確認してからレバーを動かした。急に檻が横に移動した振動で少女が尻餅をついてしまったが、他には何事もなく檻は下に降ろされて止まった。
 次に、イコは部屋の奥、城壁に変わった取っ掛かりが突出している通路に出た。一つ一つの取っ掛かりに手を掛けて着実に上に登っていくと、やがて操作室の上に設置されたクレーンが間近に迫ってきた。城壁というより断崖と化しつつある場所を乗り越え、クレーンの上に立つ。クレーンの横幅は当然のことながら狭く、ひとり分の長さしかない。足を踏み外せば、今や霞むどころか目視することすらできない地面に向かって一直線である。
 イコは大きく深呼吸をすると気合を入れて足を踏み出した。風に身体を揺らされながらも慎重に足を進め、やっとの思いで鎖が伸びているクレーン先端部分まで辿り着く。
 恐る恐る下を覗き込むと、少女が不安げにこちらを見上げていた。
 ――はやく行かなくちゃ。
 少女を独りにしたくない想いと、少女の傍から離れたくない想い。
 二つの想いに押されるようにして鎖に掴まり、ガシャン、と高い音を響かせて下り始めた。
 できることなら、今すぐ飛び降りて少女のもとに急ぎたい気持ちを堪えての行程は、やたら長く感じられた。
 檻の上にようやく足が着く。顔を上げれば間近に見える少女の綺麗な面に、自然と顔が綻んだ。
 しかしイコはすぐに表情を引き締めた。
 円形の足場と檻の間には、通路の時以上に距離が空いていた。それでも、少しでも間の狭まっている地点を探し、イコはそこから円形の足場に向かって思いきり跳躍した。
「わ、わ、わ……!」
 かろうじて縁に足が届いたが、堪えきれず転落しかけてしまった。とっさに縁を掴んだ手に力を込めて足場によじ登る。登りきると、縁ぎりぎりの所に立ったまま、すぐさま振り返り少女に手を差し伸べた。
「こっちに!」
 少女ひとりではどうやっても届かない距離。それでも少女は、少年に向かって真っ直ぐ跳んだ。
 そして少年も、掴んだ温もりと重みを決して手放さなかった。

 降り注ぐ陽の光とやさしく頬を優しく撫でる風。
 少女を無事に引き上げ、イコは円形の足場の真ん中で周囲をぐるりと見渡した。
 ここでまず最初に目に付いたのは、例の不思議なソファだった。クレーンのある城壁寄りに置かれたソファは、他の場所にあったものと同じように淡い白光を放っていた。
 クレーンのある城壁側には、城の中へ通じる扉が見えた。
 一方、途中で下を向いてしまっている橋の傍にはレバーがある。その近くには下に通じる階段があったが、まずイコはレバーに近付きそれを動かした。すると音を立てて橋の下がっていた部分が持ち上がり、向かいの橋と繋がって橋が掛かった状態になった。橋の先にも城へ続く扉があり、ふたりは橋を越えて扉の前に立つと、仕掛け床に乗って扉を開いた。そこで目の前に現れた光景にイコは驚きの声を上げた。
「ここ……階段が出てきた部屋!?」
 ほんの少し前のことだが、ずっと昔のことのようにも感じてしまう。そこは、古い橋を渡って最初に入った、仕掛けによって階段の現れた小部屋だった。
 そしてようやく納得した。見覚えのあった景色は、この小部屋から外に出た時に目にした光景だったのだ。城壁の通路からだと見え方が大分変わるとは言え、
「ぼく、なんで気付かなかったんだろう……」
 注意力のなさだろうか、記憶力が悪いのだろうか。
 どちらにしても情けないことに変わりはない。
 イコはため息を吐いて、力なく肩を落とした。

 手を繋いで再び円形の足場に戻る。
 反対側の扉に向かうか、それともレバーの傍の階段を下りてみるか迷っている時、イコは少女が気遣うように自分を見つめていることに気が付いた。
「どうしたの?」
「……」
 返事の代わりに、少女の手が少年の頭を優しく撫でる。その感触がくすぐったくて、思わず首を竦めてしまう。まるであやされてるみたいだ、と思うが、何度も髪を梳く動きはとても心地よくて気持ちが落ち着いた。
 ふと、少女の足元に目が行った。ずっと裸足のままだけれど、不思議と汚れも傷もない綺麗な白い足。けれど、やっぱり裸足であることに変わりはないわけで。
「……」
 イコは、少女の手を引いてソファに向かった。ソファにすとん、と腰掛けると、問いかけるまなざしの少女に笑いかけた。手の動きで隣に座るように促し、
「少し休もうよ。ちょっと疲れたし」
 それだけ言って目を閉じる。少し躊躇っていた少女も、少年に寄り添うようにソファに腰掛け、そっと瞳を閉じた。



 まどろみの中で祈り、願う。

 ――どうか、この温もりを守る力をください。




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