5.階段

 そこは円形の狭い部屋だった。部屋を二分するように深い溝が横切り、その中央には分断された二箇所を結ぶ階段が掛かっていた。溝を越えた向かい側はイコたちが入ってきた入り口よりも低くなっている。天井は高く、入って右手側の壁にある格子のはめられた窓は高さを変えて、斜めに配置されていた。部屋の中には松明も灯されていたが、その必要がないほど窓から暖かい光が差し込んでいる。所々にはツボや樽が置かれており、窓から入ってきたのだろう白い鳩たちを見ることができる。
 静かで穏やかな風景が広がっていた。
 しかし部屋の中に足を踏み入れた瞬間、イコは空気そのものが変質してしまったかのような重い、息苦しさを感じた。身体がひどく緊張し、少女の手を握る手に自然と力がこもる。
 異様な感覚の原因を理解する間もなく、部屋の溝を越えた向こう側、部屋の右隅の樽が並べられている辺り近辺に、突如湧き上がる光――決して眩しさも明るさも感じさせない、暗く青白い輝きが見えた。
 不吉な予感に視線を向けた先で、予感を裏付ける闇の沸き立つ漆黒の穴が現れ、そこから人の形をした影がその姿を見せた。小さな虫のような影も数匹現れる。
 そして、少年は気付いた。
 いつの間にか、世界から音が消えていることに。
 風の音が、鳥のさえずりが、松明のはぜる音が、何も聞こえない。
 ただ、自分たちが、そして影たちが生み出す音だけがひどく響く。
 音のない世界はまるで夢のようだ、と思った。目の前の出来事がとても遠く感じられて、ひどく現実離れした――けれど、これは現実。
 少女に真っ直ぐ向かってくる影に対し、イコは少女を後ろ手に庇いつつ木の棒をしっかりと握りなおした。



 木の棒を構える少年を警戒してか、影は棒の長さぎりぎりのところまで近づいては離れる、という動作を繰り返す。イコは思わず追いかけ、木の棒を大きく振るった。しかしその一撃は避けられ、逆に生まれた隙をつかれて影の一撃を食らってしまい、床に強く叩きつけられた。それでも急いで身を起こすと、影に抱えられて漆黒の穴に連れて行かれそうになっている白い少女が目に入る。
 まとわりついてくる小さな影たちには構わず、影と少女を追う。少女が漆黒の穴に連れ込まれる前に影に向かって思い切り木の棒を振るい、その一撃に影が少女を落とすと、イコは少女の手を引いて影から一旦距離をとった。
「ここにいて」
 溝は、低い側の床から降りても、子どもの背丈くらいの深さがあった。そこに少女を隠すように避難させる。
イコは改めて木の棒を握りなおすと、再び向かってくる影に今度は自分から向かっていった。



 肩で息をするイコの目の前で影は煙となって消えてゆく。小さな影たちや漆黒の穴も間を置かず同じようにして消えていった。
 そしてほぼ同時に、世界に音が戻ってくる。風の音、鳥のさえずり、火のはぜる音――世界は再び世界の生み出す音に満ち溢れる。
「もう、だいじょうぶだよ」
 イコが声をかけながら背後を振り返ると、そこに居るはずの少女の姿はなかった。微かに浮かべていた安堵の笑みが凍りつく。
 再び緊張に身を強張らせ、慌てて周囲を見渡し――少年は、がっくりと肩を落として、深く安堵の息を吐いた。
 いつの間にか溝から出ていた少女は、部屋の中の鳩をじっと見つめ、時には後を追いかけ、驚いた鳩に逃げられまた追いかけて――そんな事を繰り返していた。
 けれど、決して鳩を捕まえようとはしない。鳥が羽ばたけば、その様子をどこか羨望の眼差しで見つめていた。
「……鳩、好きなの?」
 少女が静かに見つめている鳩を驚かさないよう、そっと近づいたイコは囁き声で尋ねてみた。
 少女は驚いて少年の方を向き、質問がわからなかったのか、小首を傾げて再び鳩に視線を移した。
 何となく、少女の唇が緩やかな弧を描いているように見えた。その様子に、イコも何だか無性に嬉しくなった。
 しばらく少女と一緒に鳩を眺めていたが、イコは少女の手を引いて注意を引くと、
「ぼく、ちょっと周りを見てくるから……ここに、いてね?」
 床を指差しながら少女に伝える。
 今度は意味が伝わったのだろう、少女は小さく頷いた。それに安心して、少年は部屋の中のもう一つの出入り口――二人が入ってきた入り口の正面に位置する、床の低い側にある扉へと向かった。



 この城の扉は、イコが慣れ親しむ取っ手による開閉を行うものと違い、扉の手前の仕掛け床を踏んで、扉を開く、という造りになっているようだった。当然、仕掛け床から離れればわずかの時を置いて扉は再び閉ざされる。
 様子見のために円形の狭い部屋から外に出たイコの目の前に現れたのは、城の城壁と大きな檻をぶら下げたクレーン、庭のようにも見える円形の足場だった。円形の部屋からは、本来、円形の足場を経て更に向こう側の城の建物へと道が続いていたのだろう。しかし、今は肝心の円形の足場へと至る橋が半ばで力なく下がり、道は分断されていた。これでは飛び越えて向かうこともできない。
 思わず漏れ出る落胆のため息。
 ――べつの道を探さないと……
 イコは目前の景色に背を向け、少女の居る部屋へと戻った。



 再び円形の部屋に入ると、少女はまだ鳩を見ていた。その様子を微笑ましく見つめながら、イコは他の道がないか周囲をぐるりと見渡した。
「……あれ?」
 その時、目に入ってきたものに、思わず小さな声が漏れた。
 最初、少女の身を隠した溝の、階段を挟んだ反対側の溝の中に、上に人がひとり余裕で乗れるくらい大きな箱があった。
 あまりにも不自然に置かれている箱に興味を持ったイコは、近づき、箱の置かれている溝に飛び降りた。
 念のため、まずは木の棒で叩いてみる。
 ガシィィン、と高い音が響いた。
「……! いったぁ〜……」
 固いものを叩いた衝撃で少年の手に痺れが走る。痺れが治まるまで待つ間、箱には何の変化もない。
 一体、この箱は何なのか。悩むイコの傍らに、いつの間にか少女が寄り添っていた。
「きみは、これ、何だと思う?」
 尋ねてみるが、やはり答えはない。
 少年は仕方なく、まじまじと箱を見つめた。
 ――ずいぶん大きいけど、木箱みたいだし、動かそうと思えば動かせると思うんだけど……
 そこまで考え、ふと思いついた。
 ――ひょっとして、この箱の下に隠し通路があるんじゃ!
 そう思ってみれば、箱の大きさから見て、一人分の幅の通路なら余裕で隠せそうだと思える。
 イコは早速、箱を押してみた。
 重い手ごたえだったが、すぐに、ずずっ、と鈍い音を響かせ箱が動き出す。やがて、箱が元あった位置から完全に除かれて現れた地面には、隠された通路などなく、色違いの床だけがあった。
 しかし、落胆する間もなく、部屋を振動が襲う。
 重い響きと振動。
 何事かと見守るイコと少女の目の前で、高さ違いに造られた窓がある側の壁際に、階段がせり上がっていく。階段が完全にせり上がると、音と振動が止まった。
 イコは少女の手を引いて新たに現れた階段に近づいた。音と振動に驚き、一旦飛び立っていった鳩たちが、何事もなかったように階段の上に降り立っていた。
 階段を上った先には通路が見える。
 どうやら、この階段から先に進めそうだった。
 イコは少女と顔を見合わせると、少女の手を引いて階段を上り始めた。




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