4.古い橋

 塔の外に出ると、そこには古い橋があった。古い橋が真っ直ぐ伸びるその先には、霧に覆われ霞んで見える城があった。ぼんやりと滲むような輪郭だけを見せる、けれど周囲の景色に決して溶け込むことはない圧倒的な存在感を持った巨大な城。
 霧に閉ざされた、まるで幻のようにどこか現実味のない風景が広がる。
 その風景に魅入られたように動きを止めたイコの手から、温もりがするりと抜けた。
 我に返って慌てて少女を振り返ると、少女は塔の出口近くにあったソファを静かに指差していた。そのソファは、不思議なことに白い輝きを――どこか少女のものと似た光を放っている。
「これは――?」
 少女に問いかける視線を送る。
 少女はソファを指差しながら何事か言葉を発したが、イコはその意味を知ることができない。
 ――休もう、と言っているのかな。
 何となくそう思い、恐る恐るソファに腰掛けた。すると、少女も少年の隣に静かに腰を下ろした。
 隣の温もりに安心して、ようやく肩の力が抜けた。ため息のような息を吐いてゆっくりと身体をソファに預ける。
 城に連れてこられてから今まで、本当の意味で落ち着ける時などありはしなかった。緊張の連続だったと言っても良い。イコの身体は少年が自覚している以上に疲弊していた。
 ふ、と意識が遠のく。
 淡い光がすべてを包み込んでいくようだった。
 疲れ果てていた身体も。
 わずかな間に積み上げられた、たくさんの記憶も。



 左肩に重みと温かさを感じて、イコはうっすらとまぶたを開いた。
 真っ先に目に入るのは霧に霞む世界。非日常の景色に、少年の瞳が驚愕に見開かれた。しかし、次の瞬間自分の身に起こった事を正確に思い出す。
 隣に目を向けると、白い少女がイコにもたれ掛かって両の瞳を閉じていた。その右手はいつの間にかイコの左手としっかり繋がれている。
 どうやらいつの間にか寄り添うようにして眠り込んでいたらしい、ということに思い当たり、無意識のうちに手を握っていたこと、自分も少女にもたれ掛かっていたという気恥ずかしさに少年の頬がほんのり赤く染まった。
 少女の寝顔をまじまじと見つめることもできず、視線を彷徨わせていた時だ。
 それが、少年の目に飛び込んできた。
 角の生えた戦士の――大人の石像。
 初めて目にした、子どもではないその姿に、イコは胸がざわめくのをはっきりと感じた。もう、諦めていた。けれどきっと、ずっと望んでいた姿をそこに重ね合わせる。
 角の生えた子どもがイケニエとして連れてこられる霧の城。そこになぜ――?
「あなたは、誰?」
 小さな呟きに答える者はいない。
 その石像は古い橋の手前に飾られていた。城に背を向け、イコたちが出てきた塔を見据えるようにして。まるで、目を離してはいけないものがそこにあるとでも言うように。
 ――見ているのはあの影だろうか。
 ――それとも。
 温もりを握る手に力がこもる。
 すると、その手が確かに握り返された。
「あ……ごめん。起こしちゃったね」
 目を覚まして自分を見つめる少女に向かって、イコは決まり悪げな苦笑を漏らした。イコに引かれるようにして少女は音もなく立ち上がった。
 その瞳が少年から城へと向けられる。
 イコも少女と同じく城を見やる。
「うん……行こうか」
 そして古い橋を渡るために歩き出した。
 城に向かって。



 徐々に城の輪郭がはっきりしてくる。
 橋の半ばを渡り終えた時だった。
 イコが微かな振動を感じた――その瞬間。
 橋の崩れ落ちる音と共に、左手の重みが増した。
 少女の足場が崩れ落ちたのだ。
 そのことを理解するより早く、イコの身体は動いていた。空中に身を投げ出される少女の手を強く握り、自分まで投げ出されないように踏みとどまる。今にも肩が抜けてしまいそうな衝撃を歯を食いしばって耐え抜く。
 痛みを堪えて無理やり笑みを浮かべると、風に揺らされる少女に、
「だいじょうぶ。ぜったい、助けるから」
 安心させるように頷いてみせた。
 イコの手を握る少女の手に、力が込められた気がした。

 両手を伸ばして少女の細腕をつかみ、イコは少女を何とか引き上げることができた。
 通ってきた道に目を向けると、崩れ落ちた幅は思いの外広かった。おそらく、もう戻ることはできないだろう。
 荒い息を吐いて座り込むイコの傍らで、少女は優しくイコの肩をなでていた。
 落ち着いてくると、少女になでられている事が恥ずかしくなってきて、イコは勢いよく立ち上がった。驚いたのだろう、少女はぴたりと動きを止めて、不思議そうに少年を見つめた。心配そうな視線が向けられる。
「あ、えと、ぼくはだいじょうぶ。きみは? けがとかしてない?」
 そう言いながらイコが差し出した手をしばらく見つめると、少女は両手でそっと包み込むようにしてイコの手を握った。その手を胸の前に引き寄せ、祈るように瞳を伏せた。
 きょとん、と見つめ返してくる少年に、少女は優しい微笑を向ける。
 一瞬、その微笑みに見惚れた少年も、すぐに満面の笑みを浮かべた。

 古い橋を渡り終えると、再び例の石像が待ち構えていた。ひざを抱え込むようにしてうずくまる、角の生えた子どもたちの石像が。
 少女と共に、石像の前に立つ。
 すると、塔の中の時と同じく少女から光が放たれ、光を受けた石像が動き閉ざされていた道が開けた。
 それはまるで、今までずっと封印されていたものを解き放っていくようで。
 けれど、そのことが何を意味しているのかわかるはずもなく。

 そして二人は、城の中へと足を踏み入れた。




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