1.祭壇
外はひどい嵐だった。
雷鳴が轟く。
ガラスの割れた窓からは雨風が激しく吹き込んでくる。
イコは見慣れぬ塔の螺旋階段を登っていた。
引き寄せられるように、上へ、上へと。
やがて頭上に大きな鳥籠が現れた。他者を拒むような大きな棘のついた鳥籠だった。しかし中は空っぽで何も入っていない。
イコはなぜかそれから目を逸らすことができず、歩みを止めてじっと見入っていた。
すると、空っぽのはずの鳥籠から何かが滴り落ちた。
ポタリ、ポタリ。
籠から溢れ出て滴り落ちるそれは、遥か下方の床に水滴のような痕を残した。
影のような、闇のような、真っ黒なモノ。
少年の目に、それはまるで血のように映った。
怖い。もう、見ていたくない。
そう思うのに目が離せない。
少年が目を離せないでいると、黒いものがゆっくりとせり上がり、人のような形をとった。
真っ黒なヒト。
――悪魔――
そんな言葉が思い浮かぶ。
思わずあとずさった背中が壁に当たった。
それなのに、何故。
背後に感じる気配。
気付いた時には、もう遅かった。
背後に現れた影にイコは飲み込まれていく。
「…………っ!!」
声にならない叫びを上げ、助けを求めて手を伸ばした。
しかしその手を掴み、少年を助けてくれるものは存在しない。
いない、とわかっていてもなお。
――イヤダ――!
助けを求め、必死にもがく。
それを嘲笑うかのように、影はイコの身体をゆっくりと飲み込んでゆき――
――タスケテ――……
やがて、完全な闇が。
唐突に視界が開ける。
ひんやりと冷たく、硬い感触がした。
イコは自分が石の床の上にうつ伏せになって倒れていることに気付いた。まだ微かに震えている身体を叱咤して、何とかその身を起こす。
周囲を見渡せば、そこは壁一面にたくさんのカプセルが設置されている。しかし、ひとつだけ台座から落ちて倒れている、蓋の開いたカプセルがあった。
そして少年はようやく思い出した。
ここは霧のお城。
生贄として連れてこられて、カプセルのひとつに入れられたこと。けれどしばらくしたらひどくゆれて……自分の入っていたカプセルが倒れて、外に放り出されてしまったこと。
そして気を失って……
つまり、あれは、夢。
夢の、はず。
そう思うのに、胸のざわめきは、身体の震えは、なかなか納まってはくれなかった。
落ち着いてくると、イコは途方に暮れてしまった。
生贄として連れてこられた身ではあるが、カプセルに戻ることはできないし、あの暗く寂しい空間に戻りたいとも思わなかった。
――村に戻ることもできないのだろうけれど。
しばらく考え込んでみるものの妙案が浮かぶわけでもなく、その内じっとしていられなくなった少年は、とにかく動き回ってみようという結論に達した。
改めて周囲をじっくりと見渡し、イコの目は驚愕に見開かれた。
――入ってきた入り口がなくなっている。
二階だと思っていた場所は、上へ通じる階段や梯子があるものの、下へ通じる道はない。
――ここから出ることはできない、ということなのかな。
諦めに似た気持ちが湧き上がる。
そもそも、カプセルから出られたこと自体が奇跡のようなものだったのかもしれない。今まで生贄として連れてこられて、カプセルから出られた者なんて、いないはずだった。少年が放り出されたもの以外、異常のあるカプセルはないのだから。
ふと、思う。
それでは、今まで生贄として連れてこられた子どもはどうなっているのだろうか。
カプセルの中で一生を終えたのか。
それとも――
少年の脳裏をよぎったのは、霧の城に来てから何度か目にした石像。
イコは慌てて頭を振って、浮かんだ映像を振り払った。大きく膨らみ始めた不安も、心の奥底に無理やり押し込める。
――とにかく動こう。
それでも他のカプセルに近づく気になれず、まず、壁に向かって伸びる立派な階段に向かった。
やたらと大きく響く足音が耳につく。自分しかいないことを痛感させる。
イコはわざと音を立てるように、階段を一気に駆け上った。
上りきった先の壁には、普段あまり見慣れない、けれど見覚えのあるものが存在していた。
――これ、レバーだ。
レバーは上に上がっていた。どうなるかなんてわからなかったけれど、イコは恐る恐るレバーに手を伸ばして掴むと、思い切り下に引っ張ってみた。
思いの外、レバーは簡単に下がり――
――ガタンッ
何か重いものが動いたような音が響いた。
驚いたイコは慌てて振り返ってみたが、視線の先に広がる光景に特に異変はない。それならば、先ほどの音はなんだったのかと考えてみて、そう言えば下のほうから聞こえてきたことに思い当たった。だったら、と、手近な手すりから身を乗り出して下の方を覗き込んでみる。しばらく視線をさまよわせた後、少年はそれを見つけた。
「扉っ!」
思わず、驚愕の叫びを上げてしまった。そして身を乗り出しすぎていた身体はバランスを崩して手すりから落ちてしまった。
「うわっ」
短い叫びと、ドスン、という鈍い音が響く。普通なら大怪我をしてもおかしくない高さから落ちたイコだったが、角の子どもであるせいだろうか、普通の子どもより――いや、大人と比べても遥かに頑丈な身体を持つ少年は怪我らしい怪我を負ってはいなかった。せいぜいが、ぶつけたところが少し痛むくらいで、そこを軽くさすりながら事も無げに立ち上がった。
そして。
逸る気持ちを抑え、ゆっくり、確実に近づいていく。
夢ではないことを確かめるように、ゆっくりと。
その先には扉があった。正確には、扉の開いた出入り口が。
そこはちょうどレバーのあった場所の真下で、階段の影に隠れるようにひっそりと佇んでいた。最初、この部屋に連れてこられた時は、頭上を伸びる階段には気付いても、扉には気付かなかった。そして先ほど目覚めた時は、階段が死角となって扉を隠していた。
あのレバーを引くと扉が開く仕掛けだったのだろうか。
イコがすぐ間近まで近づいても、扉が閉まる気配はない。
――外に、出られる――?
かすかな希望を胸に、少年は扉をくぐった。